teleleの雑記帳

たまに哲学の話をします。

World-Time Parallel

 様相の形而上学と時間の形而上学の間にある並行性が認められることは、多くの哲学者によって指摘されているし、(分析)形而上学で最初に覚えることのひとつだ。たとえば、現実主義(actualism)という立場があり、これによれば、存在するものとは、何であれ現実に存在するものである(あるいは、現実に存在するものだけがリアルである)。対して、現実には存在しないが、存在することも可能なものも何かしらの形で「ある」という立場(あるいはより極端な立場だけど、現実にあるものと同じくらいに可能なものもリアルだという立場)は、可能主義(possibilism)と呼ばれる。そして様相論理に量化を加えた体系では、この双方の主張にかなり対応しているように見える体系をそれぞれ構築することができる。もっともこうした形式体系上の対応をどう受け取るべきかは、慎重な検討が必要である。

 一方、時間についても上記と同様な立場の違いを考えることができる。たとえば現在主義(presentism)という立場があり、これによれば、存在するものとは何であれ現在存在するものである(あるいは、現在存在するものだけがリアルである)。対して、今は存在しないが、かつて存在したものや、これから存在するものも何かしらの形で「ある」という立場(あるいは、今あるものと同じくらいに、過去や未来にあるものもリアルだという立場)は、永久主義(eternalism)と呼ばれる。そして、様相論理にその時間的解釈として時制(時相)論理があることを考えれば、先の形式体系上の対比はここでも再現できることが分かる。
 もっとも時間については、過去と未来の非対称性からまた別の立場を考えることもできる。たとえば、かつて一度でも存在したものは、たとえ今では存在していなくても、何らかの形で「ある」と言えるが、これからはじめて存在するようになるものは、いかなる形でもまだない、という立場は、増大主義(inflationism)と呼ばれる。つまり、この立場では、存在者は時間の経過にしたがって増える一方だ。時間も広い意味で様相の一種に含めることもある。まとめると以下。

可能性様相バージョン
現実主義:存在するものとは何であれ現実に存在するものである。
可能主義:現実には存在しないが、存在することも可能なものが「ある」。

時間様相バージョン
現在主義:存在するものとは何であれ現在存在するものである。
永久主義:今は存在しないが、かつて存在したものや、これから存在するものが「ある」。

 一般に、現実主義者は「ある(being)」と「存在(existence)」の区別に意義を認めず、他方可能主義者はこれを区別する傾向がある。また現在主義者は、過去、現在、未来の時制を区別を強調して、その還元不可能性を主張する傾向があるのに対して、永久主義者はこれを無時制的な「ある」に一元化する傾向がある。
 もっともこれだけであれば、そんなのただの言い方の問題なんじゃないの?というツッコミは避けられない。そして、実際にそれぞれの局面でどちらかにコミットする側からも、相手に対してそういう批判がなされる場合もある。それぞれの主張と適合的に見える形式体系上の対応物があると言っても、というかそれならなおさら、実質的なポイントがどこにあるのか、というのが問題にされなきゃいけない。

 以下は、この様相と時間の並行性を、現代的な様相論理と可能世界意味論の発展の初期の議論を適宜簡潔に紹介しつつ、その形式的でテクニカルな点を整理したもの、という感じ。

The World-Time Parallel

The World-Time Parallel

 もっと形式的にゴリゴリのやつかと思ったら、案外スラスラ読めるので少し拍子抜けしている。もちろんテクニカルな話がけっこう淡々と続くのだけれど、入門的にも悪くないのかもしれない。しかし形式的に穏当に展開できる部分を、きちっとまとめているのはいいのだけど、どうも隔靴掻痒の感は否めない。これはやはり、truthmaker関連の話をしないと実質的な議論に入っていかないのではないかな(ぼく自身は「truthmaker」という言葉は、できるだけ使いたくないのだけど)。かなり前に出た以下の本と部分的に重なるところがある。

Formal Ontology and Conceptual Realism (Synthese Library)

Formal Ontology and Conceptual Realism (Synthese Library)

 しかし、上の本とは別だけど、このCocchiarellaさんの様相の教科書は、目次を見る限り、かなりマニアックな感じがするなぁ。

 この辺の話にtruthmakerを絡めることの重要性は以下で指摘されている(たぶん、永井均が「言語哲学に頭をヤラれてなければ・・・」と言うことで、意図していることとも関連してる。)

A Future for Presentism

A Future for Presentism

大真面目―ダジャレでもシャレでもない

アクロバティック様相論理


「誰もが誰かを愛していて、片想いというものがなく、その想いが推移的ならば、
みなナルシストだ!!」

という推論を昔どこかで見たか(たぶんジェフリーの本)、あるいは(ジェフリー本に無ければ)自分で何かをヒントに思いついて、

「はっ!この推論の「人」の部分を「可能世界」に、「想い」を「到達可能性」とすれば、これはそのままクリプキ・セマンティクスのフレームの帰結関係になって、ということは(K)DB4からTが出るということではないか・・・!!!」

と考え、

「誰もが誰かを愛していて、片想いというものがなく、その想いが推移的ならば、
みなナルシストだ!!」が論理的に妥当な推論であるがゆえに、「必然的なものは可能的であり、事実は必然的に可能的なものであり、必然的なものは必然的に必然的であるから、必然的なものは事実なのだ!!!」

という推論を思いついてひとり悦に入っていたM1の頃・・・。しかし逆の思いつきのほうが良かった気がするな・・・。


証明

1 ¬A→□◇¬A    B(片想いがない)
2 □◇¬A→◇◇¬A  D(誰もが誰かを愛している)
3 ◇◇¬A→◇¬A   4(想いが推移的である)
4 ◇¬A→¬□A    ◇と□の相互定義可能性からの帰結
5 ¬A→¬□A     1~4より
6 □A→A       T(みんなナルシスト!) 5の対偶




追記(2014/12/01):「誰もが誰かを愛していて、片想いというのがなく、その想いが推移的ならば、みなナルシストだ!」という前提をとくに置かなくても、「必然的なものは可能的であり、事実は必然的に可能的なものであり、必然的なものは必然的に必然的ならば、必然的なものは事実である」は上記の通り出るのだが、なぜ後者が論理的に出るだろうと思ったかというと、前者が論理的に妥当な推論であるから、という話です。そもそも前者はフレームの帰結関係(としても解釈できる)であり、したがって様相においては意味論上の事柄である一方、後者は公理図式の帰結関係で証明論上の話。*1なので、この二つをつなげて、ふつうの論理的推論と同じ意味で「推論」と言ってしまうのは、誤解を招くかな、と考えたので追記した。あと、もうひとつ、後でどこかの恐い先生から、「お前はシンタクス/セマンティクスの区別とオブジェクトレベル/メタレベルの区別の区別ができとらん!」と怒られるんじゃないかという予感がしたので。
 ちなみに、この区別の区別の話は、十年ほど前に今では伝説となった某掲示板経由のウェブサイトで読んで、その後、論理学を独習しながら何度も「なるほど・・」と思って反芻してきた話なのだけど。オブジェクトレベル/メタレベルの区別ができるのに、それがシンタクス/セマンティクスの区別とは違う区別だというのが分からない、というのは、シンタクス=オブジェクトレベル、セマンティクス=メタレベルと考えてしまって何が悪いのか分からないという人がいるということだろうか。たとえば、「演繹定理は、シンタクスに対するメタレベルの定理で、オブジェクトレベルの定理とはもちろん違うけど、意味論関係無いよね」と言えば、はっきりするような気がするのだけど、甘いのでしょうか。

*1:はじめから対象言語の中に可能世界を値とする変項とそれをもカバーする量化子が様相オペレータとともに入っている言語も考えられないわけではないけど。というかルイスが推奨しているのは、むしろそうした言語かもしれない。

なぜそこで・・・

さらっと間違う?・・・(それも、思いっきり)


 「・・・という感じではないか。」・・・ではない。どんな観察命題とも両立可能で、絶対に間違わないけど、経験的には情報量ないのは、矛盾ではなくトートロジー

 トートロジーの(構文的な)否定が矛盾。矛盾した議論からはどんな帰結も導けるので、どんな観察命題とも矛盾させることができる。絶対に間違うのが矛盾(古典論理では)。話が真逆。


 そしてなぜこれで周りは納得する??

そんなのやってるのか・・・。

optical_frog on Twitter: ドゥルーズとかどうでもいいから NHK は分析系の哲学番組をふやしなされ.

もうかれこれ3年ほど、テレビ観てないので、分からん・・・。

認識的可能性(epistemic possibility)と認識可能性(knowability)―二次元意味論の認識的理解と認識論理の意味論

Two-Dimensional Semantics

Two-Dimensional Semantics

 去年の今頃、大学院のゼミで新しく入った修士の人たちと一緒に、D.Chalmers「The Foundations of Two-Dimensional Semantics」(2001)を読んだ。ぼくはドクターのコーディネーター(とゼミの担当教授に言われたのだが、これがどういう役割だったのかよく分からない)として出席していて、この論文は結局そのゼミでは最後まで読めなかったのだけど、ところどころ気になったところがあってChalmers本人にメールを出したのである。と同時にその一部をゼミの最後でコメントしたのだが、以下がそれ。

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ただ可能であるというだけのものたち―Ersatzismではない現実主義

Mere Possibilities: Metaphysical Foundations of Modal Semantics (Carl G. Hempel Lecture)

Mere Possibilities: Metaphysical Foundations of Modal Semantics (Carl G. Hempel Lecture)

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論理空間の冷戦体制と孤島の可能世界

 以前に考えたことで、ずーっとすっきり見通せない話。様相の形而上学関連だとあまり指摘されないような感じがあるけど、重要なことだと思うので、まとめて書いておく。ちなみに以下は、以前に紀要に書いた論文の一部とも重なるところがある。

 Armstrongも言っているように、必然的な命題については、すべての可能世界で真だから必然的なのか、それとも必然的だからすべての可能世界で真になるのか、という疑問が浮かぶことがある。もちろん、可能世界意味論では、φがある世界で必然的なのは、φが(その世界から到達可能な)すべての可能世界で真のとき、そのときに限るので、先の二つはどちらも同じことからのトリヴィアルな帰結でしかない。でも、これらはやはり別々の直観に根差していて、とくに後者のほうが自然に感じる人がぼくも含めて多いと思う。

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