大真面目―ダジャレでもシャレでもない
アクロバティック様相論理
「様相論理」を使った面白いダジャレが思いつきません。 — 論理学をやるのであれば、ダジャレと縁を切りなさい。 http://t.co/UCULKSMMHa
— ytb (@ytb_at_twt) August 21, 2014
「誰もが誰かを愛していて、片想いというものがなく、その想いが推移的ならば、
みなナルシストだ!!」
という推論を昔どこかで見たか(たぶんジェフリーの本)、あるいは(ジェフリー本に無ければ)自分で何かをヒントに思いついて、
「はっ!この推論の「人」の部分を「可能世界」に、「想い」を「到達可能性」とすれば、これはそのままクリプキ・セマンティクスのフレームの帰結関係になって、ということは(K)DB4からTが出るということではないか・・・!!!」
と考え、
「誰もが誰かを愛していて、片想いというものがなく、その想いが推移的ならば、
みなナルシストだ!!」が論理的に妥当な推論であるがゆえに、「必然的なものは可能的であり、事実は必然的に可能的なものであり、必然的なものは必然的に必然的であるから、必然的なものは事実なのだ!!!」
という推論を思いついてひとり悦に入っていたM1の頃・・・。しかし逆の思いつきのほうが良かった気がするな・・・。
証明
1 ¬A→□◇¬A B(片想いがない)
2 □◇¬A→◇◇¬A D(誰もが誰かを愛している)
3 ◇◇¬A→◇¬A 4(想いが推移的である)
4 ◇¬A→¬□A ◇と□の相互定義可能性からの帰結
5 ¬A→¬□A 1~4より
6 □A→A T(みんなナルシスト!) 5の対偶
追記(2014/12/01):「誰もが誰かを愛していて、片想いというのがなく、その想いが推移的ならば、みなナルシストだ!」という前提をとくに置かなくても、「必然的なものは可能的であり、事実は必然的に可能的なものであり、必然的なものは必然的に必然的ならば、必然的なものは事実である」は上記の通り出るのだが、なぜ後者が論理的に出るだろうと思ったかというと、前者が論理的に妥当な推論であるから、という話です。そもそも前者はフレームの帰結関係(としても解釈できる)であり、したがって様相においては意味論上の事柄である一方、後者は公理図式の帰結関係で証明論上の話。*1なので、この二つをつなげて、ふつうの論理的推論と同じ意味で「推論」と言ってしまうのは、誤解を招くかな、と考えたので追記した。あと、もうひとつ、後でどこかの恐い先生から、「お前はシンタクス/セマンティクスの区別とオブジェクトレベル/メタレベルの区別の区別ができとらん!」と怒られるんじゃないかという予感がしたので。
ちなみに、この区別の区別の話は、十年ほど前に今では伝説となった某掲示板経由のウェブサイトで読んで、その後、論理学を独習しながら何度も「なるほど・・」と思って反芻してきた話なのだけど。オブジェクトレベル/メタレベルの区別ができるのに、それがシンタクス/セマンティクスの区別とは違う区別だというのが分からない、というのは、シンタクス=オブジェクトレベル、セマンティクス=メタレベルと考えてしまって何が悪いのか分からないという人がいるということだろうか。たとえば、「演繹定理は、シンタクスに対するメタレベルの定理で、オブジェクトレベルの定理とはもちろん違うけど、意味論関係無いよね」と言えば、はっきりするような気がするのだけど、甘いのでしょうか。
*1:はじめから対象言語の中に可能世界を値とする変項とそれをもカバーする量化子が様相オペレータとともに入っている言語も考えられないわけではないけど。というかルイスが推奨しているのは、むしろそうした言語かもしれない。