teleleの雑記帳

たまに哲学の話をします。

論理空間の冷戦体制と孤島の可能世界

 以前に考えたことで、ずーっとすっきり見通せない話。様相の形而上学関連だとあまり指摘されないような感じがあるけど、重要なことだと思うので、まとめて書いておく。ちなみに以下は、以前に紀要に書いた論文の一部とも重なるところがある。

 Armstrongも言っているように、必然的な命題については、すべての可能世界で真だから必然的なのか、それとも必然的だからすべての可能世界で真になるのか、という疑問が浮かぶことがある。もちろん、可能世界意味論では、φがある世界で必然的なのは、φが(その世界から到達可能な)すべての可能世界で真のとき、そのときに限るので、先の二つはどちらも同じことからのトリヴィアルな帰結でしかない。でも、これらはやはり別々の直観に根差していて、とくに後者のほうが自然に感じる人がぼくも含めて多いと思う。


 このことは、可能世界や到達可能性関係を原始概念とするかどうかということに関係がある。そして様相論理でも、これらをプリミティブに扱う場合と扱わない場合がある。
 可能世界や到達可能性関係を原始概念とするとはどういうことだろう。これはたとえば、まったく同じことが成り立っている世界は同じ世界か、ということと関連する。そこで以下の二つのアプローチを比べてみる。

 その世界で何が起ころうとも、あくまでその世界はその世界であると言えるとしよう。このとき、その世界で起こっている事柄と、その世界がその世界であるための根拠は無関連なので、まったく同じことが成り立っている二つの世界というのは、論理的には排除されない。そこで、それぞれの世界で原子文p、q、r、・・・の真偽が定まり、各々の世界で何が成り立っているかとは無関係に、世界間の到達可能性を設定すれば、各々の世界での様相的な文◇φ、□ψの真理値も自動的に決定される。これは、たとえば命題論理で、原子文p、q、r、・・・の真理値が決まれば、そこから得られるどのような複合的な文¬φ、φ∧ψ、φ∨ψ、φ→ψの真理値も決定されるのと同じことだ。
 ここでは、可能世界も到達可能性関係もプリミティブなものになっている。このアプローチだと、必然的な命題とは、必然だからすべての(到達可能な)可能世界で真というよりも、すべての(到達可能な)可能世界で真だから必然的なのだ!という感じになる。

 一方、命題(または文)の最大無矛盾集合そのものを可能世界として見做なす!という立場を考えよう。この場合、まったく同じことが成り立っている二つの世界というのは存在しない。集合が同じであるのは、そこに含まれる要素が同じであるとき、そのときに限る。したがって、まったく同じことが成り立っていたら、それはたんにひとつの同じ世界でしかない。ここで、世界Wから、世界W′に到達可能というのは、Wに含まれる少なくともひとつの◇φという形の命題と、すべての□ψ₁、□ψ₂、□ψ₃、・・・のという形の命題の様相オペレータを除去した命題、φ、ψ₁、ψ₂、ψ₃、・・・がすべてW′に含まれている、ということだ。ここでは、可能世界も到達可能性関係も原始概念にはなっていない。この立場では、必然的な命題とは、すべての(到達可能な)可能世界で真だから必然的なのだというよりも、必然的だから、すべての(到達可能な)可能世界で真なのだ!という感じになってくる。

 ふつう、様相論理の教科書で可能世界意味論を最初に導入する際には、前者のように可能世界と到達可能性関係をプリミティブにとるアプローチが採用されることが多い。一方、S4やS5などの各公理系の完全性を証明する際には、後者のように可能世界と到達可能性関係をプリミティブには扱わないやり方を(結果的には)とることが多いと思う。その場合、命題の最大無矛盾集合は、もっと具象的に文の最大無矛盾集合という形をとる。

 様相論理で各公理系の完全性を証明するときには、その公理系の定理のみを妥当にするモデルを考えるやり方がある。これを、その公理系のカノニカルモデルと呼ぶのだけど、各公理系に相対的な最大無矛盾集合の集合を、そうしたモデルとして使ったりするのだ。そして、これがcohesive(凝集的)かどうかが問題になることがある。このことを精確に特徴づけるために、到達可能性関係Rに基づいて、しかしそれとは異なる関係Lを導入しよう。Lは以下の条件を満たす最小の関係である。

(L1)∀w∀w’(wRw’→wLw’)
(L2)∀w∀w’∀w’’((wLw’ & w’Lw’’)→wLw’’)
(L3)∀w∀w’(wLw’→w’Lw)

つまり、ある世界wからある世界w’に到達可能であれば、そこにはLという関係が成り立っている(L1)。そして、この関係は推移的で対称的である(L2、L3)。ただし、これは到達可能性関係Rが推移的で対称的であることとは異なることに注意。

 ここでモデルがcohesiveであることを以下のように定義する。

定義 モデルがcohesiveである ⇔ ∀w∀w’(wLw’)

 つまり、モデルがcohesiveであれば、どの二つの可能世界も、一方から他方へ直接的に到達可能か、あるいは少なくとも到達可能な他の可能世界を間接的に経由したりしてリンクしている、ということ。したがって、モデルがcohesiveであれば、どの可能世界からもそこには行けず、そこからどの可能世界にも行けない離れ小島のような可能世界は存在しないし、また互いにその内部でしか行き来が出来ないように論理空間がいくつかのブロックに分割されてもいない、ということだ。

 で、ところでよくS5が妥当になるフレームのことを、どの世界からどの世界にも行ける、すなわちどの世界にも到達可能なフレームとして言うことがある。そこでは到達可能性による相対化は冗長になって、必然的な命題とは、たんにすべての可能世界で真な命題であり、また可能な命題とは、たんに少なくともひとつの可能世界で真な命題と言われたりすることがある。しかし、これは厳密にはミスリーディングだ。S5が妥当になるフレームが、どの世界からどの世界にも行けるフレームになるのは、モデルがcohesiveである場合に限られる。つまり、到達可能性が反射的で推移的で対称的であることは、S5を妥当にするフレームの特徴なのだが、このことと互いに到達可能ではない二つの世界があることは矛盾しないし、冷戦体制のように論理空間がブロック化されていることとも矛盾しない。直観的には、次のように考えてもいい。たとえば「同郷人である」というのは、反射的で推移的で対称的な関係だ。誰もが自分自身と同郷人であり、xとyが同郷人でyとzが同郷人なら、xとzも同郷人であり、xとyが同郷人なら、yとzも同郷人だ。しかし、だからといって、すべての人が同郷人であるわけではない。故郷が違う二人の人物がいることは、もちろん可能である。
 さらに言えば、可能世界と到達可能性関係をプリミティブに扱うのであれば、S5を妥当にしながら、同値フレームでないモデルさえ考えることができる。

 そして、S5のカノニカルモデルは、cohesiveではない、ということが証明されている。実際、任意の原子文pについて、◇pと◇¬pのどちらかが(あるいは両方が)、たんに真であるのみならず、「論理的真理」だというのはおかしいように感じる。このおかしさの源は、それ自体論理的に妥当な命題であるわけではない何かが、「可能だ」ということに関しては論理的真理であり、そのことは論理から保証される、というのがおかしい、ということにある。つまり、(矛盾はしていないかもしれないが)現実には端的に偽であるような文が、しかし「(現実には偽であったとしても)真であることも可能だ」ということ自体は論理的に保証される、というのがおかしいのだ。*1

 要するに、S5を妥当にするフレームがcohesiveにならないようにすること、すなわち論理空間の冷戦体制と離れ小島のような可能世界を考えることは、「何かが可能である」こと、「(現実には偽であっても)真であることも可能である」ことを論理的真理にしないために重要なのである(あるいは何か特殊な身分の真理にしないために重要なのである)。

 そこで思うのだが、ルイスの様相実在論は、これを何か特殊な身分の真理にしない仕組みがあるのだろうか・・・。*2 とくにあの論理空間の飽和性を考えるなら・・・。つまり、『Plurality of the worlds』をまた読まないといけない、ということなのだが(現実性の指標的分析以外、ほぼ中味を忘れてる)。ルイス自身は、区別のつかない二つの世界を認めるかどうかは、難しいところだと書いていたような気がする。
 どちらかというと、可能世界(というか、たんに「世界」)と到達可能性をプリミティブに扱うやり方は、可能主義者に親和的な一方、これらをプリミティブに扱わず、命題の最大無矛盾集合として扱うのは、現実主義者に親和的に思える。*3 しかし、先の論理空間の冷戦体制と離れ小島の可能世界は、このどちらにとっても面倒な問題を引き起こしそうな気がずっとしているのだが、それが正確に何なのか、いまだに自分でも明瞭に見通せないのである・・・。*4 


追記(2014/12/26):S5のカノニカルモデルが、cohesiveでない話をした直後にルイスの様相実在論に触れているので、これはちょっとマズイ書き方をしてしまったな、と反省。ルイスに詳しい人にとっては常識的なことだけど、対応者理論における対応者関係は、一般に推移的でも対称的でもない。この場合、S5を構成する公理図式の4とBは成り立たない(とはいえ、記事で触れたように、区別のつかない複数の可能世界の存在を許容する場合にはどうか、という疑問はある)。自分でもなぜこんな基本的なことを忘れていたんだろうと呆れているのだけど、とはいえこの記事で考えようとしていたことがどう影響を受けるのかは、ちょっと再考してみないと分からない。


A New Introduction to Modal Logic

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On the Plurality of Worlds

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Possible Worlds (Problems of Philosophy)

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Modal Logic as Metaphysics

Modal Logic as Metaphysics

*1:◇p∨◇¬pは、論理的真理だろうと考える人がいるかもしれない。実際、これは◇(p∨¬p)と同値である。必然的に成り立つことは、可能的にも成り立つだろうし、排中律は必然的だと言うわけだ。しかし、◇p∨◇¬pが論理的真理であることと、◇pと◇¬pのどちらかが論理的真理であることは異なる。つまり、⊢◇p∨◇¬pと、⊢◇p or ⊢◇¬pの違い。さらに言えば、本文とはまた文脈が異なるけれど、デッド・エンドの世界ならば、◇(p∨¬p)も◇p∨◇¬pも成り立たない。それは、あらゆることが必然で(矛盾さえも!)、いかなることも不可能(排中律さえも!)な世界だ・・・。

*2:これについては、2014/12/26の追記を参照

*3:もっとも、プリミティブに扱わないやり方をとるにしろ、例外的な世界が少なくともひとつは存在する。それは現実世界、まさにこの現実の世界である。この場合、現実の現実世界とモデル上の現実世界は区別されるのだが、それはともかく、この場合、この現実世界はプリミティブだが、他の可能世界はそうではない、と考える手があるだろう。もっとも、ルイスであれば、この世界は別に文や命題の塊ではないのだから、だったら他の可能世界も文や命題の塊ではないわ!と言うだろう。

*4:一応、ぼくはC.Menzelにならって、(古典的)可能主義と、ルイス的様相実在論を区別している。