teleleの雑記帳

たまに哲学の話をします。

認識的可能性(epistemic possibility)と認識可能性(knowability)―二次元意味論の認識的理解と認識論理の意味論

Two-Dimensional Semantics

Two-Dimensional Semantics

 去年の今頃、大学院のゼミで新しく入った修士の人たちと一緒に、D.Chalmers「The Foundations of Two-Dimensional Semantics」(2001)を読んだ。ぼくはドクターのコーディネーター(とゼミの担当教授に言われたのだが、これがどういう役割だったのかよく分からない)として出席していて、この論文は結局そのゼミでは最後まで読めなかったのだけど、ところどころ気になったところがあってChalmers本人にメールを出したのである。と同時にその一部をゼミの最後でコメントしたのだが、以下がそれ。


「すべての独身者は結婚していない」は必然的である?

 「すべての独身者は結婚していない」を形式化すれば、∀x(Bx→¬Mx)となる。これに対する必然性オペレータのつけ方は以下の三通りあって、これらはすべて異なる。

(ア) □∀x(Bx→¬Mx)
(イ) ∀x□(Bx→¬Mx)
(ウ) ∀x(Bx→□¬Mx)

(ア)がある世界で真だとすれば、その世界を含むどの世界のどの存在者も、それぞれの世界でBであればMでない、ということ。つまり、BでありながらMである存在者は、その世界にはもちろん、他のどんな世界にもいない。

(イ)がある世界で真だとすれば、その世界のどんな存在者も、その世界はもちろん他のどんな世界にいたとしても、BであればMでない、ということ。しかし、BでありながらMである(orありうる)存在者は、その世界にはいないが、他の可能世界にはいるかもしれない。

(ウ)がある世界で真だとすれば、その世界でBであるものは、たとえ他のどんな世界にいたとしてもMではないということ。しかし、その世界でそもそもBでない存在者は、他の可能世界でBであったとしても、Mでもあるかもしれない。

 ちなみに(ⅰ)到達可能性が対称的で、(ⅱ)可能世界によって存在者が増えたり減ったり、あるいは部分的に入れ替わったり、そっくり入れ替わったりする状況を考えなければ、(ア)と(イ)は同値である。

 「すべての独身者は結婚していない」の必然性を否定する人が、実際に否定しているのは、(ウ)であって、(ア)や(イ)じゃない。つまり「すべての独身者が結婚していないのは必然的である」は曖昧である。それも構文的に曖昧なだけであって、それを肯定するのも否定するのも、様相オペレータの位置によって処理できる。この場合、二種類の必然性などは必要ない。したがって、ぼくはこの問題のために二次元意味論をわざわざ導入するのは根拠薄弱だと思う。これはぼくの立場というよりも、様相の形而上学をやっている人なら、誰でも最初に思いつく処理だ。論理学的には、二次元意味論がどうしても必要になってくる理由は、こうしたこととは別にある。

 さらに、「ユナ・ボマーは爆弾魔である」や「切り裂きジャックは人殺しである」も、「ユナ・ボマー」や「切り裂きジャック」を記述化していいならば、あるいは固有名でも、その固定指示性を外せば、上と同じように処理できる(のだが、さすがにこれらについては、上とは同じように扱わないのかもしれない)。

 もっともチャーマーズがこの程度の技術的処理を知らないはずがない。彼の目標は、1内包がすべて真になることとアプリオリ性を結び付けることだ。そこで彼は「すべての独身者は結婚していない」をアプリオリな文の典型例として挙げている。しかし、先の技術的処理を通過したあとならば、この文は相変わらず2Dマトリックス全体が真で埋め尽くされるような例に見える。もちろん、2Dマトリックス全体が真で埋め尽くされるならば、まったくトリヴィアルな仕方で、1内包はすべて真に決まっている。この辺り、彼がどう考えているのかは、ぼくにはまだちょっと不明なところだ。

Sの認識的必然性の否定は、¬Sの認識的可能性?

 チャーマーズは、自身の提示した形而上学的十全さの原理が、形而上学的に不可能だが認識的には可能というクリプキ主義者の例と整合的であると言っている。さて、クリプキがそんなこと言うかね、と思ったのだが(言ってるのかもしれないし、だとしたらクリプキにしては、かなり不用意だと思う)、これはけっこう問題含みではないか。というのも、「形而上学的に不可能なことは、認識的にも不可能だ」と言うほうがよほどクリプキ主義的に徹底していると思うからだ。
 チャーマーズが考えているのは、「フォスフォラスとヘスペラスは同一である」や「水はH2Oである」というのが、アポステリオリかつ必然的な真理だということだろう。これらがアポステリオリなのは、その否定、たとえば「フォスフォラスとヘスペラスが同一でない」がアプリオリに排除できないためだ。そうでない可能性がアプリオリに排除できないとすると、元の文は認識的に必然じゃない、よって「フォスフォラスとヘスペラスが同一ではない」は、(形而上学的には不可能でも)認識的に可能という推論が働いているのだろう。
 認識的必然性のオペレータを■としよう。すると■Sの否定、つまり¬■Sは、通常の様相オペレータとのアナロジーから、Sの否定の認識的可能性、つまり◆¬Sを含意するように見える。しかし、そう見えるのは、認識的に必然であるというのを1個のオペレータとして考えているからだ。たとえば、Sが認識的に必然であるというのを、Sを知らないことはありえないという意味で、任意の主体aとともに□KaSとしてみよう。すると、こいつの否定、つまり¬□KaSは、◇¬KaSを含意するだけだ。つまり、「Sを知っていることは必然である」を否定すると、「Sを知らないことが可能だ」が帰結するだけで、いかなる意味でもSそのものの否定の可能性が生じるわけではない。つまり、フォスフォラスとヘスペラスが同一であるとか、水がH2Oであるとしても、我々は、それらを知らないことが可能なだけなのである。
 もちろんチャーマーズは、この点にまったく気づいていないわけではないだろう。彼が、自分の認識的可能性の基準は通常のものより弱いとか、認識的可能性といっても、それは深い認識的可能性である(この「深い」は論文の中ではだいたい省略されている)と言うことで予防線を張りつつスルーしている論点がこうしたことである。ちなみにチャーマーズの二次元意味論の解釈に対しては、Scott Soamesによる批判が知られているが(ぼくは未読)、それが「形而上学的には不可能だが、認識的に可能なことはある」という前提を受け入れた上での批判なら、Soamesによる批判は、クリプキ主義的にかなり生ぬるいものと言わざるをえないと思う。

形而上学的に不可能なものは、認識することも不可能」の証明

 実は「形而上学的に不可能なものは、認識することも不可能」というのは、たんにそういう哲学的立場があってもいいよね、という話にとどまらない。というのも、これは認識と様相のハイブリッドな体系で形式的に証明できるのだ。
 Sを任意の文、aを任意の主体としたとき、Kasを「Sということをaは知っている」という文の形式的写しとしよう。知識の古典的定義「正当化された真なる信念」により、「aがSを知っている」から「Sは真である」が帰結する。つまり、認識論理は、KaS→Sを公理にとる。見やすさのために証明の流れを簡略化してポイントだけ示すと次のようになる(完全な証明は最後に回してあります)。

簡略バージョン
(1) KaS→S         認識論理の公理
(2) ¬S→¬KaS       (1)の対偶
(3) □¬S→□¬KaS     (2)と様相の必然化および様相の公理からの帰結
(4) ¬◇S→¬◇KaS     (3)の同値置き換え

 ここでは、認識論理の公理を含め、特別なことは何もしていない。使われている様相論理も、最も証明力の弱いベーシックなものでしかない。つまり、この体系で証明できるということは、もっと証明力の強い他の体系ならなおさら証明できる。これについて、チャーマーズからの反論は二通り予想できると思う。

 一つ目は、この(4)の前件と後件に二度出現している◇は、形而上学的可能性を言っているのではなくて、あくまで論理的可能性を言っているだけだ、というもの。つまり、論理的に不可能なものは、認識することも論理的に不可能ということであり、この前件は形而上学的不可能性を意味していないと解釈することだ。この場合、形而上学的に不可能なものは論理的にも不可能ということを前提にするならば、やはり同じことが結論されるが、しかしこの前提を認めるのに躊躇する人は多いかもしれない(逆ならば成り立つと考える人は多いだろう)。

 二つ目は、次のようなものだ。この証明中のSは、はじめから2内包で解釈されており、そうであれば、こうした証明が出来るのは当然だというもの。2内包にinputされるどのような可能世界の住人も、不可能なことが成立しているという矛盾した事態を目撃することはないし、そうした事態が起きている証拠を得ることもできないだろう。なぜなら、そもそもどの世界でも成立していないがゆえに、それは不可能だとされているからだ。チャーマーズの論文の流れからいえば、こちらのほうがより自然な反論だろう。形而上学的に不可能だが認識的に可能というのを、おそらくチャーマーズはすべて偽である2内包を少なくとも一つは持つが、1内包に真が混ざるような二次元的内包というのに結びつけて考えたいはずだからだ。しかし、このことを「形而上学的に不可能だが、認識的に可能」というのは、非常にミスリーディングではないかと思う。それらはそもそも同じ命題について言われていることではない、と言いたくなる人は多いだろう。もっともチャーマーズは、その曖昧さこそを明確にしようとしているつもりなのかもしれない(この点についてはチャーマーズに共感できないわけじゃない)。しかし、少なくとも「形而上学的に不可能だが、認識的には可能」というのをクリプキ主義者に帰すのはミスリーディングであると思う。

 もっとも「形而上学的に不可能なものは、認識することも不可能」ということを受け入れたうえでも、形而上学的に不可能なことを信じることは可能であるかもしれない。あるいは認識することも可能だと信じることも可能かもしれない。つまり、¬◇S、¬◇KaS、◇BaS、◇Ba◇KaSは、整合的であろう。認識論理と信念論理のどちらも、広い意味で様相論理の認識的解釈と呼ぶことはある。

 さらに認識的必然性とアプリオリ性を区別するやり方も考えられるかもしれない。つまり、「つねに経験的に正当化されている(経験的に正当化されていないことがありえない)」ことと「そもそもいかなる経験的正当化からも独立である」ことの違いだ。とくに「私は存在する」をアプリオリに取らないとすれば、この違いは重要でありえる。しかし、この違いを受け入れるなら、なおさらチャーマーズはもっと繊細になるべきだと思う。現在、認識論理と正当化論理の統合が目下進行中なので、将来このことはもっと明瞭に表現できるようになるかもしれない。



「端的に(または形而上学的に)不可能なものは、認識も不可能」の形式的証明

(1) KaS→S                          認識論理の公理
(2) (KaS→S)→(¬S→¬KaS)                    対偶律
(3) □(KaS→S)                        (1)の必然化
(4) □((KaS→S)→(¬S→¬KaS))                (2)の必然化
(5) □((KaS→S)→(¬S→¬KaS))→(□(KaS→S)→□(¬S→¬KaS))    様相論理の公理
(6) □(KaS→S)→□(¬S→¬KaS)                (4)(5)MP
(7) □(¬S→¬KaS)                      (3)(6)MP
(8) □(¬S→¬KaS)→(□¬S→□¬KaS)      様相論理の公理
(9) □¬S→□¬KaS                      (7)(8)MP
(10) (□¬S→□¬KaS)→(¬□¬KaS→¬□¬S)           対偶律
(11) ¬□¬KaS→¬□¬S                  (9)(10)MP
(12) ◇KaS→◇S                     (11)と◇の定義
(13) (◇KaS→◇S)→(¬◇S→¬◇KaS)               対偶律
(14) ¬◇S→¬◇KaS                   (12)(13)MP

 この証明における必然化とは、Aが公理または定理ならば、□Aも定理として導いてよい、という様相論理の基本的な推論規則。(3)におけるこの規則の適用に疑問を感じる人は、この否定である◇(KaS∧¬S)、つまりSが知られていながら、Sでないということが可能かどうかを考えてみるとよい。それが可能だとするならば、現代認識論の重要な前提を拒否することになるだろう。また様相論理の公理とは、□(A→B)→(□A→□B)のこと。


* 「認識」という日本語は、日常的にもけっこう使用されているけど、それは認識論をやっている(分析)哲学者の用法と明らかにズレてますな。「ヤクザと食事することはセーフだと認識していた」というS田S助の例からも分かるように、この日常語とのズレについて、哲学やってる人はもっと鋭敏であっていい。


 一応、ここまでがゼミの最後でまとめてコメントしたこと。上記以外にも同論文を読んでいて、次から次へと気になることが出て来たので、とても全部は反映できなかった。とくに最初のほうは、Barcan Formulaを絡めたde re様相とde dicto様相の区別の話なので、このあたりに詳しい人は、何をそんな基本的なことを・・・と思うだろう。でもマスターのゼミだし、専門外の人もいたので、ここでちょっと混乱があったのよね。

 上記で「形而上学的には不可能だが、認識的には可能」というのをChalmersがクリプキ主義者に帰しているような書き方をしているが、これは言い過ぎ。おそらくクリプキ主義者のアポステリオリかつ必然的な真理の例を、Chalmersは、自身の立場から、形而上学的には不可能だが認識的には可能な文の例だと言っているだけだろう。これはゼミでも指摘されたし、実際そうも考えられるなと思う。

 これを読んだ人は、「これって二次元意味論というより、認識論理の話になってない?」と思うだろうけど、実際ぼくは、二次元意味論の認識的理解と認識論理の意味論の間の関係に関心が行っているわけだ。

 で、上記の論点の他にいくつかのポイントもまとめてChalmersにメールしたんである。とくに付け加えたのは、彼のcanonical descriptionには量化子や同一性記号のようなものは入っているのか、ということ。これは絶対入っているはずだと思った。というのも、多くの哲学者は(論理学者も)個体定項を固有名のように扱う。でもChalmersは、固有名を意味論的に中立なものとは扱わない。*1 もし、個体定項が使えないなら、確定した真理値を持つ原子文は存在しないだろう。この場合、量化子が必要になってくるはずだ。

 Chalmersからの返信によると、実際彼は「すべての独身者は結婚していない」の2Dマトリクスは、すべて真であるとしている(まあ、そうだろうね)。またcanonical descriptionには量化子を入れなきゃいけない、ということ。同一性記号については返信の文面だけからは微妙だけど、必要性は感じているらしい。このことは実際にChalmersもずっと考えていたらしく、『constructing the world』で書いているみたいで、その該当箇所を見てくれ、とのこと。去年の段階ではまだペーパーバックが出てなかったのだ。*2

Constructing the World

Constructing the World


 一方、形而上学的不可能性は認識的不可能性を含意してしまうのではないか、というぼくの論点に対しては、やはり反論が来た。彼によれば、たとえば(aを特殊な主体に限定することで)認識的必然性をKaSで取れるなら、この否定はもちろん¬KaSであり、自分ならSの認識的不可能性はKa¬Sで考えただろう、と。そして、たぶん形而上学的不可能性は認識的不可能性を含意しないんじゃないか、と。でも、何か見落としているところもあるかもしれないし・・・と有名人にしてはけっこう謙虚であった。

 ここまで読んだ人の中には(そういう奇特な人がいるとして)気づいた人もいるかもしれない。実は、この点については、ゼミでコメントしてからしばらくモヤモヤしていて、その後にChalmersから返信が来た直後にはっきり気づいたのだが、ぼくは上記のまとめで、ずーっと認識的可能性(epistemic possibility)と認識可能性(knowability)を混同しているのだ。後者は、一見したところ、たんにChalmersの深い認識的可能性よりも強いだけではなく、通常の認識的可能性よりもさらに強い。整理してまとめると以下のようになる。

1、深い認識的可能性:アプリオリに排除できない。
2、通常の認識的可能性:すでに知っていることから排除できない。
3、認識可能性:実際に知ることが可能である。

 これらの違いに思い及んだ当初、3から2は論理的に出せるし、2から1も論理的に出せるが逆には辿れないと直観的には思った。しかし、実はこれ、3から2も出ないのである。つまり、3と2はどちらが強いというよりも、相互に独立でさえあるのかもしれない。2を「通常の」認識的可能性ということには、根拠はあると思う。というか、ほとんどの認識論理の研究者は、このような意味で「認識的可能性」という言葉を使っているだろう。つまりSが認識的可能性であることは、Sがすでに知っていることから排除されないので、そうであることが後で分かったとしても不思議ではない、ということだ。Chalmersからの返信は、この部分を直接的に指摘するものはなく、間接的な示唆だったのだけど。しかし、ぼくのように認識的必然性を「□KaS」で考えることがリーズナブルなら、認識的可能性を「◇KaS」で考えるのもリーズナブルかもしれないよ、と再返信しておいた。でもこれは慣用上、無理があるのかもしれない。さらに、認識ではなく、信念であれば、この2と3のような違いは、つまりdoxastic possibilityとbelievabilityの違いは重要でなくなるだろうとも付け加えておいた。

 ちなみに、もし認識的必然性をぼくのように□KaSで取らず、Chalmersのようにひとつのオペレータで■Sとするのであれば、以下のどちらかが真になりえて、これは説明を要するのではないか。

4、Sは認識的必然だが、誰かがSを知っているのは必然ではない。(■S∧¬□KaS)
5、誰かがSを知っているのは必然だが、Sは認識的に必然ではない。(□KaS∧¬■S)

もっともこの宇宙の自然史のどの時点でもつねに認識者が存在するというのは、ありそうにないことなのだが、その場合KaSの真理値は(さらには■Sの真理値も)どうなるのか、ということも気になりはする。オペレータを形成する主体に対しても、Free Logicの各バージョンのようなことを考えなきゃいけないのだろうか。でも、こう考えていくと二次元意味論の解釈からはだんだん離れていく感じがするのだ。*3

The Knowability Paradox

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New Essays on the Knowability Paradox

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Reference & Description: The Case Against Two-Dimensionalism

Reference & Description: The Case Against Two-Dimensionalism

*1:意味論的に中立でない語彙を説明したほうが早いだろう。これは、現実世界がどうあるかが経験的探究によって明らかになってくるのに応じて、その指示が現実世界のみならず反事実的世界においても同一対象を指示すると後から分かるような語彙のこと。代表的なところでは、固有名、指標詞、直示語、自然種名など。つまりは固定指示子なのだが、それがどんな対象に結びついているかは、経験的探究によってはじめて分かる、というもの。

*2:指導教員の研究室にあったので見せてもらったら、予想以上に分厚くて死にそうになった。結局後回しにしたので未だに読めていない・・・。

*3:ちなみに、ぼくはこのエントリー全体で少しズルい書き方をしている。ひとつは分かりやすくするためなのだが、「知る」と「知っている」は違うので、ここは本当は区別しなきゃいけない。「認識する」と「認識している」も同様。とくに否定や様相と組み合わさる場合。たとえば、死ぬことが可能な人はいるが(というか、みんなそうだろうが)、死んでいることが可能な人はいない。これと同様の観点から、たとえば、ぼくはFitchの認識可能性のパラドクスが、そもそもあまりパラドクスには見えないのだ。