teleleの雑記帳

たまに哲学の話をします。

論理空間の故郷

忘れるということがピンとこないことについて - Take a Risk:林岳彦の研究メモ


 これを読んで、ウィトゲンシュタインの『論考』の解釈を思い出した(確率論とはまた観点が違うと思うが)。あれは、現実の世界の中に、現実の世界がそうもありうる(orありえた)ようなさまざまな世界の模型(可能世界)があって、そうした模型の全体を「論理空間」と呼ぶのだけど、でも模型は、あくまで模型として現実世界の中にちゃんとある(その分、たとえばD.Lewisの様相実在論よりケッタイなことは言ってませんよ!という気分が醸し出される)。しかし、そうなると、そうした模型を作るさまざまな素材は、現実世界の中から調達して来なきゃならない。つまり、現実世界に基づいて可能性を考えなきゃいけない。すると論理空間がちょうどこのサイズである、ということ自体は必然なのか偶然なのか、という・・・。現実世界がこのようにあるのは偶然だ。であれば、そこから派生する可能性の全体もまた偶然なのか。可能性の全体を覆っているはずの論理空間自体も、また別様でありえるかもしれないのに、それは思考不可能である・・・というような話。
 本当に取り返しのつかないことは、世界がどうあるかということよりも、どんな仕方であれ、論理空間の全体そのものを決めちゃうような現実世界がとにかく存在しちゃった、ということみたいな。

 こうした考え方は、『論考』の解釈から離れて、現在の様相の形而上学者たちの議論の根底にあるものだけど、まあ、PlantingaもAdamsもC.Menzelも、みんな『論考』期のウィトゲンシュタインの子供たちだ。



ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む (ちくま学芸文庫)

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む (ちくま学芸文庫)