teleleの雑記帳

たまに哲学の話をします。

Modal Logic as Metaphysicsの読書メモ その2(1.1~1.4)

前回のつづき。

 実際に形式体系に即した議論は、第2章以降なので、ここではまだ英語独特の言い回しに頼った文章になっていて、そのために少し分かりにくい。ちなみに以下で注は、ぼくがこのブログでコメントするために勝手につけているもので、ウィリアムソンの本にある注ではありません。


要約


1 Contingentism and Necessitism

1.1 The Question

・モノがいかにあるのかは偶然だが、それぞれのモノがそもそもあるのも偶然なのだろうか。明らかにそれも偶然だと思える。現実にあるモノは、そもそもないこともできたし、あってもよかったモノが、現実にはない。
・現実にあるモノよりも多くのものがありえたし、より少ないものしかなかったということも可能だった。そして、そもそもまったく何も無いことも可能だった。*1

・一部の哲学者は、正反対の見解を持っている。彼らによれば、モノがどうあるかは偶然でも、それらがあるということは必然である。(『論考』期のウィトゲンシュタインは、そう考えていたように思える。「対象」ということで彼が何を意味していたのかは論争的だし、いずれにせよそれがあると言うことを彼がナンセンスだと思っていたにしても。)

・何があるのかは必然的であるという命題を必然主義と呼ぼう。偶然主義は、必然主義の否定である。必然主義者は、必然的に、すべてのものは必然的にある、と言う。もう少し長ったらしい言い方だと、すべてのモノが必然的にそれ自身と同一であるようなモノとしてあることは、必然的である。*2 必然主義のスローガンは、「存在論は必然的である」というもの。偶然主義は、これを否定する。偶然主義のスローガンは、「存在論は偶然的である」。


・必然主義は、何らかの種が例化されているのは偶然であることを否定する必要はない。動物が存在するのは、偶然である。しかし動物は、ただ偶然的にのみ動物である。これは、動物が偶然的にのみある(存在する)ことを意味しない。
・必然主義も偶然主義も、何があるのかが知られたり、考えられたり、言われたりしうるかどうかについてのドクトリンではない。ここで問題になっている必然性とは形而上学的なものである。形而上学的な必然性とは、何がどうあろうと、そうあらざるをえないものである。物理法則でさえ、この意味では形而上学的に必然ではない。

・本書は、必然主義と偶然主義を比較する。どっちが正しいのだろうか。


・必然主義と並行して永遠主義というものがある。それによれば、いつでもすべてのものはつねにある。永遠主義の否定が時制主義である。
・必然主義者は自動的に永遠主義者というわけじゃないし、時制主義者は自動的に偶然主義者というわけではない。宿命論者であれば、何であれ偶然的な事柄をすべて否定するという点で必然主義者かもしれないが、何が存在するかは必然的なスケジュールに沿って変化する、ということを認めるかもしれない。
・しかし通常、ほとんどの必然主義者は永遠主義者だろうし、同じ理由から、ほとんどの時制主義者は、偶然主義者だろう。
・偶然主義と永遠主義を結びつけるのも容易い。時間が、人々がふつう想像するよりも、もっと空間的な次元に似ているのなら、「すべてのもの」と「何らかのモノ」の範囲は、時空全体の内容を無制限に覆うことができるし、であればその範囲は時間をまたいで一定である。しかし、そうしたケースでさえも、時空全体の内容は、現実とは別様でありえたかもしれない。



1.2 Form of Necessitism

・必然主義を真面目にとるべきだろうか。必然主義(または永遠主義)にクレバーで理論的な論証が与えられれば、その誤謬の診断から多くを学べるかもしれない。

・コインのような対象は、微視的な粒子からなる。それを「アトム」と呼ぼう。そうしたアトムは、本質的に具体的なものだとする。そうした原子論に基づいて必然主義を擁護するやり方には二つある。ひとつは消去主義であり、もうひとつは還元主義である。
・消去主義によれば、アトムだけがあり、コインなどと言うものは本当はない。コインについての語りは、アトムについての複雑な語りの便利な省略でしかない。したがって、コインがないことは、必然主義への反論とはならない。アトムは、日常的な感覚からは対象ではないので、これについて必然主義が成り立つかは明らかではない。理論的な探求だけが、この問いに答えることができる。
・還元主義によれば、アトムだけではなく、コインも(多くのアトムの集まりとして)本当にある。コインについて必然主義が成り立つのは、それがそのコインを構成していたアトムについて成り立つとき、そのときに限る。もちろん、そのアトムの集まりは、かつてはコインではなかったし遅かれ早かれコインではなくなるし、コインでないこともありえた。しかしこれは、いかにあるかについての単なる変化や偶然性であって、それがそもそもあるかについてではない。前と同様に、必然主義がアトムについて成り立つかどうかは明らかではない。

・どちらの必然主義の擁護も魅力的ではない。消去主義者は、マクロな対象があることを否定する。還元主義者は、マクロな対象を構成するアトムの集まりを、それにとって本質的なものにする。ある時点にコインを構成していたアトムの集まりは、別の時点にその同じコインを構成しているアトムの集まりとまったく同じであるわけではない。対照的に、それらのアトムの集まりは、厳密に同じ集まりである。しかし、それでもこれらのことは、必然主義にとって不十分だ。たとえ、物理学が、どんなアトムがあるかは一定であることを示すことができるのだとしても、それらが非偶然的であることをどうやって示せるだろう? なぜ、現実にあるものより、もっと多く、あるいは少なくあることがありえないのだろうか? そしてもし、アトムが物理学に基づいていないのなら、そもそもなぜそれを措定するのか。いずれにせよ、メレオロジカルな考察は、どんなアトムがあるのかについての偶然性の疑念を振り払ってはくれない。

・消去主義を拒否するにしても、このコインがあるのなら、それが必然的にあることを必然主義は含意する。しかし必然主義は、それが必然的にコインであることを含意しない。このコインが必然的にあるのなら、このコインは必然的にコインであることを還元主義は拒否するが、しかしそれでも、このコインが必然的にあるのなら、これは必然的にアトムの集まりであり、したがって具体物であることを受け入れる。しかし、これらアトムのような具体物がないことも可能だったのと同様に、このコインのような具体物がないことも可能であった。したがって、このコインが具体物であることは必然的ではない。したがって、この具体的なコインが非具体物であることもありえたことを必然主義は含意する。逆に、このコインが非具体物でありえたとしても、それでもそれは、可能的なコインであり、可能的な具体物であるだろう。したがって、補助的な想定とともに、必然主義は、具体物と非具体物との間の境界を必要とする。

・具体物は抽象的なままでもありえたし、抽象的なモノが具体物にもなりえたという形で必然主義の帰結をパラフレーズしたくなる誘惑はある。しかし、これは「非具体物である」ことを「抽象物である」ことと同義とすることに等しい。しかし、そうではない。「抽象物」は、たんに否定的な意味であるわけではなく、数や方向のような積極的な範例を持っている。また「非抽象物」と「具体物」も同義ではない。「具体物」もまた、たんに否定的な意味であるわけではなく、棒切れや石ころのような積極的な範例を持っている。たとえ、同時に具体的かつ抽象的なものはないとしても、そもそもどちらでもないものがあるかもしれない。氷山が溶けた時、それは抽象物になるわけではなく、たんに具体物であることをやめるだけだ。必然主義者も、永遠主義者も、抽象的なものとも具体的なものとも別の第三のカテゴリーの措定を望むだろう。*3


・必然主義者と永遠主義者は、典型的には、本質主義者のポピュラーなテーゼを拒否することになる。性質Pが対象oにとって本質的であるのは、oが存在するときには、いつでもoが性質Pを必然的に持つ場合だけだ(これが十分条件でもあるかについては、議論がある)。多くの哲学者は、自然種のメンバーシップは、そのメンバーにとって本質的だと見なしている。したがって、一頭のトラは本質的にトラであり、一塊の金は本質的に金である。したがって、トラが存在するなら、そのトラは必然的にいつでもトラであり、金が存在するなら、その金は必然的にいつでも金である。しかし、トラや金が存在しないこともありえたし、かつては存在しないこともあった。結果的に、必然主義者も永遠主義者も上述の形での本質主義のテーゼを拒否する。とはいえ、その修正ヴァージョンを保持することはできる。トラは、もし具体的にあるのならば、本質的にトラであり、金は、もし具体的にあるのならば、本質的に金である。本質主義をこのように修正していいかどうかは、理論的探究なしには決められない。

・必然主義のもうひとつの論争を呼ぶ副産物は、それがもたらす実体の増殖だ。それ自体は必然的存在者であるアトムの組み合わせとしてではなく、偶然的に具体物になってはないモノの存在を擁護する必然主義者は、ものすごく多くの可能的具体物があると言うことを強いられる。もし、少なくともn個の具体物がありえたのならば、必然主義によれば、少なくともn個の可能的具体物が現実にある。さらに、少なくともn個の具体物が非常に違った仕方でありえたのならば、n個以上の可能的具体物が現実にある。必然主義者は、これを受け入れるべきなのだろう。これは必然主義のコストである。これが払うに値するコストかどうかは、理論的探究を待たなければならない。



1.3 Possible Fs

・このオークの木の棒きれが、具体物になっていなかったとしよう。それが具体物でも抽象的でもないとしても、それでも必然主義者にとって、それは何かではありうるだろう。とすると、何なのか? それは棒きれでもありえた何かであるだろう。したがって、必然主義者はこう答える。それは可能的な棒切れとしてある。

・具体的でない可能的棒切れなるものを措定するのは、不条理だという反論がありうる。なぜなら、具体的であることは、棒切れであることにとって必然的であるから。しかし、この反論は、「可能的棒切れ」と言うことの意図された意味を誤解している。反論者は「xは可能的棒切れである」を「xは棒切れであり、xは存在しえた」と同値のようにとっている。これを述定的な読みとしよう。この読み方だと、「すべての可能的棒切れは、棒切れである」は自明であり、必然的だ。反論者とともに、必然的に、すべての棒切れは具体物であるとしよう。すると述定的な読みでは、必然的に、すべての可能的棒切れは具体物である。しかし、だからといって必然主義者は、もしこの棒切れが具体物でなかったとしても、述定的な読みにおいて、可能的棒切れであるという主張を帰せられるわけではない。なぜなら、この棒切れが具体物でなかったとしても、それは棒切れである、というバカげた主張を必然主義者はしているわけではないからだ。述定的な読みは、必然主義とは無関係である。

・「xは可能的棒切れである」の適切な代替的読みは、「xは棒切れでありえた」である。これを「可能的棒切れ」の属性的な読みとしよう。属性的な読みでは、たとえそれが棒切れでなかったとしても、それはやはり可能的棒切れではある。なぜなら、棒切れでありえたことは必然的であるから。この点で、非具体的な可能的棒切れに対する必然主義者の語りは、不条理なものではない。

・この区別は一般化される。「可能的にF」は、構造的に多義的である。述定的な読みでは、「xは可能的にFである」は、「xはFであり、xは存在しえた」と同値だが、属性的な読みでは「xはFでありえた」と同値である。

・「可能的にF」の二つの読みは、何であれ成り立っていることは、成り立つことができたという原理によって、たいていは外延的に重なり合う。たとえば、どちらの読みでも、すべての棒切れは、可能的な棒切れである。より深い洞察を得るためには、「ただ可能なだけである」ということを考えなければならない。何かが成り立つことがただ可能なだけであるのは、それが成り立つのは可能だが、実際には成り立っていないとき、そのときに限る。*4 必然主義は、属性的な読みでの、ただ可能的にだけ棒切れであるものを要求する。

・「可能的にF」の二つの読みとは異なって、「ただ可能的にだけF」の二つの読みは、外延がつねに一致しない。

・同様の区別が時制的にも適用される。この場合は、属性的な読みがもっと自然になる。未来の大統領とは、すでに大統領で、いずれ存在するようになるもののことではなく、いずれ大統領になるもののことだ。過去の大統領というのも、いまでも大統領で、かつて存在したもののことではなく、かつて大統領であったものだ。未来のコインは、それが造られる前にもすでに何らかのものであったし、過去のコインは、それが破壊された後でも何らかのものである。もちろん、ここで造られるというのは、それが(無から)あるようになる、ということではなく、破壊されるというのは、それがあることを辞める(無になる)ということではない。むしろ、造られるというのは、具体物になるということであり、破壊されるというのは、具体物であることをやめる、ということである。

・しかし時制主義者は、こう問うだろう。過去や未来のコインとは、それじゃあ今は一体何なのか? 同様に偶然主義者も問うだろう。コインであることもただ可能なだけのものとは、現実には一体何なのか? これは、抽象的でないものは具体的な性質を持っていなければならないということを前提していて、議論の余地がある。必然主義者も永遠主義者も、抽象的なものと具体的なもので、すべてを汲みつくしているとは考えていない。それが正しいかどうかは、理論的探求を待たなければならない。

・対象は、その様相的性質を基づけるための非様相的性質を必要とすると言われることがある。たとえば粘土のランプは、展性(様相的性質)がある。なぜなら、それは特定の微視的構造(非様相的性質)を持っているから。時間的なケースでは、同様の原理はあからさまに間違っている。昨日私がどうあったかは、今日私がどうあるかに基づいていない。様相的ケースでさえも、これは自明というわけではない。様相的性質と非様相的性質を区別するのは何だろうか? 展性(malleability)は、様相的性質かもしれない。というのも語が様相的な接尾辞(-ability)を持っているから。しかし、この接尾辞を不在が、非様相的性質の十分な根拠だと考えるわけにはいかない。おそらく微視的構造は、その対象がどうありうるか、または、ありえないかという帰結をもたらすだろう。とすると、なぜ微視的構造が「非様相的性質」のほうに含まれるのだろうか? これには適切な答えがあるかもしれないが、常識に訴えるわけにはいかない。



1.4 Unrestricted Generality

・必然主義とは、すべてのものが必然的にあるのは必然的だ、という主張である。ここで「すべて(everything)」とか「ある(is something)」は、絶対的に普遍的であり、何の文脈上の制限も受けていない。

・必然主義も偶然主義も、さまざまな制限をつけて量化子を使用できるし、そうした使用は、日常的な使用であるとさえ見なせる。とくに必然主義者は、量化子を具体物に対する制限をかけて偶然主義者の主張をシミュレートできる。対立点は双方が量化子を無制限に使用した場合にのみ明示的になる。

・哲学者の中には、量化子の無制限な使用は、理解不能だと言うものもいる。最もシリアスな考察は、そうした使用が、集合論のパラドクスと密接な結びつきを持つことに関するものだ。現代集合論によれば、絶対的に普遍的な集合というのはない。
・しかし、量化子の無制限な使用だけから、そうしたパラドクスが生じるわけではない。この矛盾はつねに、他の想定にも依存している。たとえば、量化しようとしているモノは、集合を形成する、という想定。量化子の無制限な使用を拒否することなく、そうした想定を拒否することはできる。これには堅固な擁護を与えることができ、それはちゃんと機能する。
・たとえパラドクスが、量化子の制限を強いるとしても、それは集合のような抽象的対象に関わるものだろう。これは非抽象的な対象のすべてに対する絶対的な量化を排除しない。必然主義と偶然主義の論争のポイントは、第一義的には、非抽象的対象を含むのだから、すべての非抽象的なものは、必然的に非抽象的な何かとしてあるのは必然的だ、と言うことで続けることもできる。

・必然主義が、あからさまに偽である(から検討に値しない)という非難だけでなく、それがあからさまに真である(から検討に値しない)という非難についても考えてみよう。次のような反論を述べる人がいるかもしれない。何かあるもの(something)が、コインと同様に、ただ可能的にだけコインであるものまで及ぶなら、このコインが必然的にあることは、あまりに自明すぎるという考えだ。この考えは、間違ってる。何かあるもの、という言い方が制限されていないということは、何であれただ可能的なコインがもしあるのなら、それにも及ぶということを含意してるだけだ。これは、ただ可能的にだけコインであるようなものが、そもそもあるかどうかを含意しはいない。あるものがどれだけ広範囲に及ぼうとも、カントの暗殺者に及ぶことはない。なぜならカントは暗殺されてないから。無制限な量化子は、すでにあるものについて話すだけの道具であって、必然主義を自明化するわけではない。

・デイヴィッド・ルイスのような様相実在論者は、「必然的に」や「可能的に」といった様相オペレータを、我々の世界のような最大に具体的な時空系(可能世界)への量化子と解釈する。彼らによれば、そうした量化子の明示的な使用は、様相オペレータの使用よりも明快である。日常的な文脈では、世界に対する隠れた量化子は、そのスコープ内の明示的な量化子の及ぶ範囲を問題になっている時空系に存在しているものに暗に制限する。この見方によれば、「ロバがいないこともありえた」は、そうした時空系のいくつかがロバを含まないがゆえに真だ。しかし、様相実在論者は、形而上学をやるときには無制限な量化子の使用を許容する。無制限な話し方をすれば、彼らが言っているのは、あるモノはワールドメイトではない(同じ時空系に属していない)ということである。*5 とはいえ、世界に対する隠れた量化子は、そのスコープ内にある明示的な量化子を問題になっている世界にあるものに制限するものと見なす、というのは義務ではない

・様相実在論は、制限された量化子も隠れた変数の対応者理論的な扱いもなしに、必然主義の読みを許容しなければならない。この無制限の読みは、様相実在論者が許容するどのようなフレームワークよりも必然主義の精神に忠実である。すると「必然的に、すべてのものは必然的にある」に出てくる二つの「必然的に」は冗長である。これは結局、「すべてのものはある」という自明な論理的真理に堕する。こうして様相実在論は、必然主義をトリヴィアルにしてしまう。もっとも様相実在論者は、ある世界にあるすべてのものは他のすべての世界にカウンターパートを持っているというのを否定するし、もちろん、ある世界のすべてのものは、すべての世界にあることも否定する。しかしそうやって否定された一般性は、世界に制限された量化子を持つことになり、したがって必然主義を表現することができない。

・(無制限な形で)ロバがいないことも可能だとしよう。これに対して、様相実在論者にできる最良の翻訳は(制限された形では)ロバはいない、ということが可能だということだ。というのも、最大の時空系のいくつかはロバを含まないから。しかし、これは十分ではない。ロバを含む最大の時空系が(無制限な形で)ないことも可能だ。様相実在論者にできる最良のことは、ロバを含む最大の時空系が(制限された形で)ないことも可能だということだ。なぜなら最大の時空系のいくつかはロバを含まないから。もちろん、これも十分ではない。様相実在論者は、おそらくロバを含まない時空系が(無制限に)あるということを否定するだろう。様相実在論は、本書のカギとなる結論を自明化させてしまう。本書は、様相実在論とは異なり、自明でない仕方で結論を擁護する。

・様相実在論者でない多くの哲学者も、可能世界のフレームワークを使う。彼らにとって可能世界とは、可能性を表象するデバイスだ。そうしたデバイスのひとつが、何かをコインとして表象としても、他のすべてのデバイスが、それを可能的なコインとして表象するわけではない。こうしたフレームワークでは、量化子の無制限な読みにおいても、必然主義は自明ではなくなる。たとえば私が、これが(無制限に)あると言っても、他のすべての人がそれが(無制限に)あると言うわけでない。*6

・似たような問題が、永遠主義についても生じる。様相実在論の時間における類似物、すなわち時空の四次元主義的な理解は、様相実在論ほどエキセントリックではない。それどころか、特殊相対性理論からの科学的支持を受けているようにも見える。四次元主義的な見方では、無制限な量化子は自動的に時空全体の内容に及ぶ。したがって永遠主義には、必然主義の自明化よりももっとシリアスなところがある。しかし四次元主義的な理解が提示するよりも、空間と時間の差異がもっと深いところに及んでいるのであれば、もはや(無制限に)ないものなど、そもそもあったことなどまったくないことや、いまだないものは、ずっとないままであろうことが自明になることはない。四次元主義者は、ある時点のすべてのものが、他のすべての時点に対応者を持っていることを否定するだろうし、ましてや、ある時点のすべてのものが、すべての時点にあることも否定するだろうが、こうした一般性の否定は時点に制限された量化子を有していて、永遠主義を表現することができない。



 最初に述べたように、実際に形式体系を導入した考察は第2章からなので、ここまではまだふつうの言葉で議論を展開しているのだが、そのためにかえって哲学者の英語独特の言い回しに頼った少し分かりにくい書き方になっている。いちおう、必然主義のテーゼ「すべてのものが必然的にあるのは必然的である」を、先取りして論理式で書けば以下のようになる。

{NNE:\Box \forall x\Box \exists y(y=x)}

 ここで「存在」という言葉を使ってないのは、1.5節以降でのマイノング主義との関連で注意が促されているから。そのため、存在述語{E!x}を気軽に使うこともできない。以前にこのブログで書いたように、このNNEは、正規様相論理に、通常の量化子についての規則を加えることで実際に定理として導出できる。偶然主義は、少なくともこの式を拒否しなければならない。*7 


 ここまでの流れをまとめると、

・すべてのものが必然的にあるのは必然的だ、というのが必然主義。この否定が偶然主義。*8
・必然主義者は、たいてい永遠主義者かもしれないが、永遠主義者が必然主義者だとは限らない。時制主義者は、たいてい偶然主義者だろうが、偶然主義者が時制主義者だとは限らない。
・必然主義者も永遠主義者も、抽象的でも具体的でもない、第三のカテゴリーを必要とする。
・必然主義者も永遠主義者も、ポピュラーな形の本質主義を拒否することになる。
・必然主義者の「可能的にF」は、属性的に読みましょう。
・量化子は、(集合論のパラドクスが制限を強いるのでなければ)とくに制限はないから、よろしく。
・この本は、様相実在論や四次元主義とは違った仕方で、必然主義と永遠主義を擁護してみるよ。

 具体的でも抽象的でもない第三のカテゴリーの議論のところの脚注で、Sider(2001)に対する反論がある。Siderは、具体物を非抽象物として定義している。それによれば、メレオロジーの無制限構成の公理を採用し、そして構成が起きているかどうかは決してあいまいではないとすると「あるクラスがフュージョンを伴うかどうかがあいまいであれば、具体的対象がいくつ存在するかもあいまいになる」。しかし、ウィリアムソンに言わせれば、これは必然主義のオプションを無視している。クラスがフュージョンを有するのは、何らかの非形式的で積極的な意味で対象oが具体的な場合であり、必然主義によれば、クラスがフュージョンを有するかどうかに関わらず、oは非抽象的で、非抽象的な対象の数は一定である。たとえ具体的対象の数が、何らかの非形式的で積極的な意味で、変化するとしても、その意味での「具体物」はあいまいだろうし、サイダーの論証を支持しない。*9 以下への参照が促されている。

Metaphysical Essays

Metaphysical Essays


 ウィリアムソンの本には書いてないけど、必然主義はポピュラーな形の本質主義とは相いれないという論証を形式化してみる。トラがいないこともありえたという前提は、必然主義者も認める。これは必然主義者にとって、トラである何かについて、それが存在するのは必然的なことだが、それがトラであるのは偶然でしかない、という意味でしかない。一方、ある個体にとってトラであることが本質的であるということは、その個体はトラであることなしに存在できない(つまり必然的に、存在するならトラである)ということ。そして、このことはすべてのトラについて言えるだろうと本質主義者は考えがちだ。ここで{Tx}は、「xはトラである」とする。

1. {\exists xTx}
2. {\Diamond \neg \exists xTx}
3. {\forall x(Tx\rightarrow \Box (\exists y(y=x)\rightarrow Tx))}
4. {\Box \forall x\Box \exists y(y=x)}

 1と2は、それぞれ「トラがいる」と「トラがいないことも可能だ」という前提。3は「何であれトラであるものは、必然的に存在するならトラである(トラであることなしに存在できない)」という本質主義。4は{NNE}。ここから矛盾を導く。

5. {Tt}     仮定
6. {Tt\rightarrow \Box (\exists y(y=t)\rightarrow Tt)}     3の例化
7. {\Box (\exists y(y=t)\rightarrow Tt)}     5,6とMP
8. {\Box\exists y(y=t)\rightarrow \Box Tt}     7と公理図式KとMP
9. {\forall x\Box \exists y(y=x)}           4と公理図式T
10. {\Box \exists y(y=t)}              9の例化
11. {\Box Tt}                  8,9のMP
12. {Tt\rightarrow \exists xTx}     存在汎化
13. {\Box (Tt\rightarrow \exists xTx)}     12の必然化
14. {\Box Tt\rightarrow \Box \exists xTx}     13と公理図式K
15. {\Box \exists xTx}     11,14のMP
16. {\neg \Box \exists xTx}     3の同値変形

 存在除去は面倒なので省略。ここで否定すべき前提は、3のトラの本質主義というわけだ。*10

 途中でアトミズムの話が出てくるけど、この辺りからだんだんと懸念していたことが表面化してきてると思う人も多いのではないだろうか。少なくともぼくはそうだった。もちろんウィリアムソンは最終的にこうした議論を斥けているのだが、もしやるなら物理学の哲学に深くコミットすべきだと考える人は多いに違いない。そしていずれにせよ、ここであるとか無いとか言われている存在者が何であれ、それらはそもそも人々が関心を持つべき対象なのだろうか、という疑問がずっとついて回る。この点が解消されない限り、もっぱら論理学的な話だけをこちゃこちゃとされてもなぁ、というのは素朴だが正直な感想だろう。後の1.8で、こうした議論の意義らしきものが手短に考察されているが不満足感は否めない。この点は本書全体を検討した後に改めて戻ってこようと思う。


 様相実在論のところの議論は、このままでは少し分かりにくい。改めて言うと「世界に対する隠れた量化子」とは、様相オペレータ(として解釈できる日常的な発話の単位)のこと。日常的な文脈での様相オペレータの使用に対する様相実在論者の見方を紹介したところで、以下のような記述がある。

無制限な量化子を含む文に様相オペレータを適用すればどうなるだろう。初歩的な様相論理によれば、「あるものはワールドメイトではない」は、「可能的に、あるものはワールドメイトではない」を含意する。この推論は、量化子が結論では暗に制限されていて前提ではそうでないとすると非妥当になるだろう。したがって、世界に対する隠れた量化子は、そのスコープ内にある明示的な量化子を問題になっている世界にあるものに制限するものと見なす、というのは義務ではない。


 つまり、形而上学的な主張に対して、日常的な文脈に対する様相実在論者の考え方を採用すると非妥当な推論が出てくるので、様相実在論者は制限なしの量化子の使用を認めなければならないのだが、これは必然主義をあまりにも自明化させてしまう、というのがここでの議論の流れだ。この日常的な文脈に対する様相実在論者の考え方というのが、様相オペレータはそのスコープ内の量化子の範囲を当該世界の存在者に制限する、というもの。すると「あるものはワールドメイトではない」が「可能的に、あるものはワールドメイトではない」という妥当な推論は、前提と結論で「あるもの」の範囲が異なる。ウィリアムソンはかなりサラっと書いているように思えるが、この推論が非妥当だというのはどういう意味で言っているのか少し分かりにくい。
 「あるものはワールドメイトではない」とは、この世界にはいないが、別の可能世界にはいる存在者は(自分たちと)ワールドメイトではない、という意味でとって問題ないだろう。これは量化の及ぶ範囲がこの世界にあるものに限定されない、という点で無制限な量化子をもっている。ここから(公理図式Tにより)「可能的に、あるものはワールドメイトではない」が導かれるように思える。しかしこの「可能的に」は、そのスコープ内の量化子を問題になっている世界にあるものに制限してしまう。しかし、問題になっている世界とは、この世界のことか、それともそのワールドメイトでないもののいるその世界のことか分かりずらい。前者だととすると、これが非妥当な推論だというのは「同じ世界にあるものは、必然的にワールドメイトである」というのを論理的には排除できないから、ということだろうか? とはいえ、こうした理解はこの時点で対応者理論をどの程度前提するかによるように思える。まだ形式体系もそれに即した意味論もはっきり導入していない段階では解釈がしづらい。一方、後者だとすると言おうとしていることが少し見えてくる(後の議論とルイスの本の該当箇所から判断して後者だろう)。察するに「その世界にはいないもの(その世界の他のものとはワールドメイトではないもの)がその世界にはいる(というような世界がある)」という理解になって、これはあからさまに偽でしょう!というのがポイントなのだろうと思う。*11 続いて対応者理論について以下の記述がある。

同様のアイデアが、様相実在論者の付随的なアイデアにも適用される。そのアイデアとは、通常の文脈では世界に対する隠れた量化子は、暗にそのスコープ内の自由変数を問題になっている時空系にあるもの、つまりオリジナルの表示のカウンターパートを表示するように制限するというものだ。初歩的な様相論理により、「あるものは分離した時空系のフュージョンである」は、「あるものは、可能的に分離した時空系のフュージョンである」を含意する。「可能的に」のスコープ内にあって、「あるもの」に外から束縛されている隠れた自由変数が対応者理論によって解釈されるなら、この結論は明らかに偽である。というのは、ある世界にあるものが、分離した時空系のフュージョンであることはない。したがって当たり前だが、世界に対する隠れた量化子を、そのスコープ内にある自由変数を対応者理論的に扱うものと見なす義務はない。


 これはまだ分かりやすいが、先の議論とまったくパラレルというわけではない。自由変数の扱いについての話なのは明らかだから、式で書くなら、単純な{φ}から{\Diamond φ}への推論ではなく、{\exists xFx}から{\exists x\Diamond Fx}への推論だろう。分離した時空系(二つ以上の世界)がひとつの世界にあることなんてありえないでしょう、という話だ。ウィリアムソンが参照を促している『on the plurality of wolds』の該当箇所を見ても、実際こうした量化子の制限はつねに保持される必要はないという旨が明記されている。

On the Plurality of Worlds

On the Plurality of Worlds

 さて、とはいえここで最終的にウィリアムソンが言いたいのは、こうした微修正をしたうえで様相実在論を捉えると、必然主義が単純な論理的真理に堕してしまう、ということ。*12 自分はそれとは違う仕方で必然主義を擁護してみよう、ということだ。

 一方、様相実在論的でない可能世界の見方の説明のところ、以前からそうなのだが、何回読んでも何言っているのかよく分からない。Ersatzismの話をしているのは明らかなのだが、どういう理屈でなんだろう? たとえば、チェスの駒として何かをクイーンに見立てても、女王が存在するわけではないし、ましてや必然的に女王が存在するわけではない、みたいな感じだろうか。

 現代的な存在論的カテゴリー論は以下。このうち、たとえば二番目に挙げているLoweとChihsolmの本だと、ぼくの記憶する限り、ウィリアムソンの必然主義には場所が無くなると思う(それ以外は、ちゃんと読んでいない。)

A Realistic Theory of Categories: An Essay on Ontology

A Realistic Theory of Categories: An Essay on Ontology

The Four-category Ontology: A Metaphysical Foundation for Natural Science

The Four-category Ontology: A Metaphysical Foundation for Natural Science

Substance among Other Categories (Cambridge Studies in Philosophy)

Substance among Other Categories (Cambridge Studies in Philosophy)

More Kinds of Being: A Further Study of Individuation, Identity, and the Logic of Sortal Terms

More Kinds of Being: A Further Study of Individuation, Identity, and the Logic of Sortal Terms

 途中出てくる様相的性質と非様相的性質の話については以下。

Nature's Metaphysics: Laws and Properties

Nature's Metaphysics: Laws and Properties

 上記らの話題を扱った本が最近訳された。

アリストテレス的現代形而上学 (現代哲学への招待 Anthology)

アリストテレス的現代形而上学 (現代哲学への招待 Anthology)

  • 作者: トゥオマス・E・タフコ,加地大介,鈴木生郎,秋葉剛史,谷川卓,植村玄輝,北村直彰
  • 出版社/メーカー: 春秋社
  • 発売日: 2015/01/21
  • メディア: 単行本
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 集合論のパラドクスを絡めた無制限な量化子の議論は以下。

Absolute Generality

Absolute Generality

  • 作者: Agustin Rayo,Gabriel Uzquiano
  • 出版社/メーカー: Oxford University Press, U.S.A.
  • 発売日: 2007/01/18
  • メディア: ペーパーバック
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*1:脚注でBaldwin(1996)が触れられているのだけど、あのBaldwinの論証って、様相や自由論理をやる人なら、誰でも最初に考えることだわな。到達可能性の推移性を入れて、一個一個引いていき、そのどの不在も他の存在を必然化しない、というややこしいステップを踏んではいるけれども。

*2:論理式を使った表現は第2章以降なので、ここではこういう表現になっている。このテーゼの論理式での表現は後述。

*3:この辺りを論じている脚注でウィリアムソンは「「具体物(concrete)という語は、この本を通して非形式的に用いる。(物質的であるとか、時空間的位置をもつとか、原因や結果と伴うとか)多様な明確化をここでする必要はない。」と書いていて、思わず「おいっ!」と言いそうになる。

*4:「可能的にF」の述定的な読みでは、「可能」は隠れた「存在」に対して作用するが、Fに対しては作用しないので、「xはただ可能的にだけF」は、「xはFであり、xは存在しえたが、実際には存在していない」と同値である。そうした読みでは、おそらくただ可能なだけの棒切れなどというものは、ない。というのは、「xはFであり・・・」は「Fであるxが存在する」を含意するからだ。対照的に「可能的にF」の属性的な読みでは、「可能」はFに対して作用するので、「xは、ただ可能的にだけF」は、「xはFでもありえたが、実際にはFではない」と同値である。

*5:ここの議論は少し分かりにくいので、この後で別にまとめてある。

*6:以前からずっとそうなのだが、ここは何回読んでもよく分からない。ウィリアムソン、何言ってんの? 誰か教えて欲しい。

*7:NNEの導出に関わっているのは、逆バーカン式であり、逆バーカン式の導出にはもっともベーシックな様相の公理図式しか使われてない。

*8:「偶然主義は必然主義の否定」と訳してしまっていいのかどうか、ちょっと引っかかる。対立点を見やすく描こうとしているのは分かるが、しかしたとえば「否定」といってしまうと、必然主義の否定が論理的真理であると主張しているように見えてしまう。そうとられないようにふつうは「拒否」という言い方をすると思うのだけど。ウィリアムソンがこうしたところに無頓着なわけがないのだが(とくに第3章以降の議論を見ると)、仮に無頓着な人がいたら、そりゃ様相論理と形而上学が区別できなくなるよね、と思う。

*9:脚注には、さらに次の指摘がある。「ちなみに、集合が抽象物としてカウントされ、具体物からなる集合が具体物としてカウントされるなら、後者は抽象的かつ具体的なものとなる。」

*10:以前はもっと簡単にやれたような気がしているのだが、どうやったのか思い出せない。遠回りしてたり、不必要に強い規則を採用してないかちょっと気になる。指導教官との読書会では、タブローでやってみせたのだが、タブローだと可変ドメインでやるか、固定ドメインでやるかといった手法そのものにここでの論点が内在してしまうし、プリミティブな存在述語を使うのも1章5節以降の議論の流れもあってやりにくい。NNEはグローバルアサンプションとすべきなのだろうけど、これはこれで説明が面倒だ。結局、どうやってごまかしたのか思い出せない。

*11:そもそも「ワールドメイトである」というのを何項関係として考えているのか、こういったところも論理式を出していないので、どう理解して欲しいのかよく分かりにくいのだ。

*12:少なくともここでは、これは様相実在論そのものの論駁ではないし、ウィリアムソンもそのつもりはないことに注意。ウィリアムソン自身の様相実在論への反対としては、Fara & Williamson(2005)を挙げている。(ネット上でフリーなのが見つかる)またPrefaceでも書いている通り、ルイスの様相実在論が基礎的な物理の理論に反することも別に強調されていて、それがたとえ他の時空系についてのものでも、この世界で得られる物理学的な証拠にかなりウェイトを置いているのが分かる。