teleleの雑記帳

たまに哲学の話をします。

Modal Logic as Metaphysicsの読書メモ(kindle出てたんじゃねーかっ!!!←改)

Modal Logic as Metaphysics

Modal Logic as Metaphysics


 一昨年のこと、指導教員から「T.Williamsonの新しい本が出るみたいだから、一緒に読もうぜ。で説明するように」という趣旨のことを言われたのだけど、「アレって様相(の形而上学)をやってる人はみんな一度は考えるけど、いかにも衒学的なこけおどしで終わりそうなので、ちょっと疑ってるんすよねー」みたいなことを言ったのだ。*1 取りあえず気になるところだけでもいいから、ということなので読み始めたのだが、すぐに興味のあるとこだけを拾えるような本じゃないと思って(少なくとも自分の関心にとっては)、最初からきちんと腰を入れてやろう、ということになった。そのあと、他のことで双方忙しくなり、結局前半のいくつかの章だけを読んだ状態で立ち消えになったのだが、さすがに様相の形而上学やってて、この本読んでないとは言いにくい。とはいっても、隅々まで目を通した人ってどんだけいるんだろう?。ペーパーバックが出る話も聞かないし(と思ったら、何じゃいっ!! 指導教員が「うーん、テクニカルだしマニアックだし、たぶん出ないんじゃない?」っつったから買ったのに、ペーパーバックもkindleも出てるじゃねーかっ!!!! これハードだけの当時はすんげー高かった(ような気がする)んだぞ!!!(泣))。そこで読書メモ。

 Prefaceと第1章で、全体の見通しと問題設定をしているので、ここはやや丁寧にまとめてみる。


要約


・論理学は、科学理論の間の中立的なレフェリーではなく、それ自体、論争におけるどちらか一方の当事者である。

形而上学が、かつて考えられたよりも他の科学と連続的なものであるなら、論理学もまたそうである。

・論理学は、形而上学的理論を含む科学理論に中心的な構造的核を与える。


・とくに量化様相論理の役割のひとつは、様相形而上学の理論に中心的な構造的核を与えることだ。

・量化様相論理の正統性が当然視されても、その際立った諸原理には議論の余地がある。そうした問題の中でも中心的な事柄が、本書の主題を形成する。それらは、いわゆるバーカン式、逆バーカン式として知られている事柄だ。この意味と初期の歴史は、第2章で説明している。

・メインの問いは、何があるのかは必然的か、それとも偶然的かということ。ここで対立する理論は、それぞれ「必然主義(necessitism)」「偶然主義(contingentism)」と呼ばれる。

・時間の哲学には、これと並行した「永遠主義(permanentism)」「時制主義(temporaryism)」という区別がある。

・第3章では、様相論理の体系を形而上学の理論としてどう読めばいいかを説明し、形而上学に様相論理のモデル理論を適用できるようにする。

・第4章では、偶然主義のもっともよく発展した形式の一つを吟味する。

・第5章では、高階様相論理とそのさまざまな解釈を導入する。この強力な道具立てを哲学者がもっと使えるようになったらいいのにと思う。

・第6章と第7章では、高階様相論理に十分な理論を与えるためには、偶然主義より必然主義のほうが好ましいことを論じる。

・第8章では、様相形而上学と可能世界意味論の身分を、必然主義の観点から論じる。

・量化様相論理の正統性や可能世界の本性といった、様相論理についての伝統的な哲学的問題を期待している読者には、肩透かしかもしれない。

・科学全体の部分に関連したものとしての論理学と形而上学という目下の見解は、クワイン「経験主義の二つのドグマ」のホーリズムと類似性を持つけど、このことは様相論理についての懐疑、とくに量化様相論理についてのクワインの懐疑を正当化するわけではない。
・まともな科学理論であれば、それを水に入れたら溶けるだろうと言うことは理解可能であるし、それに応じて、水の中では溶けうるものがあると言うことは理解可能だ。こうした言明を特殊な哲学的見解から咎めることは、バッドサイエンスであり、バッドフィロソフィーだ。
・第2章では、クワインの批判が、その元々のターゲットであるカルナップの量化様相論理に対してさえ成功していないことを説明する。


・現代の哲学者は、様相論理の形而上学についての本に、可能世界の本性や、とくにデイヴィッド・ルイスの様相実在論に紙幅を割いて論じているのを期待する。
・様相に対するルイスの態度は、しばしばクワインのものとは正反対と見なされることもある。しかし、ルイスの態度は、相互に隔絶した時空系を伴う非標準的な宇宙論的理論を措定し、それを可能世界と同定することで、様相的な言語をクワイン的に許容可能な言語に還元するものとして、より明瞭に理解される。
・物理学的な宇宙論は、ルイスの多時空系を排除するのに、その権限に何の制約も受けていないと自然に理解されている。ルイスの可能世界の多くは、物理の法則に違反していて、物理学者のそれと不整合であり、したがって実在の時空全体の理論として物理学と競合関係にある。こうした問題には、物理学者のほうが権威を持って話すことができると感じられるだろう。
・ルイスの影響力のある独創的な体系構築は、様相に対するクワインの消去主義的な適用が周辺化された後に、様相にクワインピューリタン的なスタンダードを押し付ける立場に固執しようとするものだ。
・第1章では、様相実在論が、必然主義の常軌を逸した形式として理解できることを手短に説明する。


・この本の主な問いは、第一義的にはテクニカルなものではない。しかし、この問いを解決する最良のやり方は、競合する答えのそれぞれを、その高階様相論理の構造的核を伴った体系的な形而上学的理論に仕立て上げて、科学における理論比較でふつうやるような仕方で帰結を比較することだと確信するに至った。このプロセスは、ある程度のテクニカルな議論によってのみ、十分に遂行される。



「論理学は、(科学)理論の間の中立的なレフェリーではなく、それ自体論争の当事者である」といった考え方は、ウィリアムソンの主張としてよく見かける。たとえば以下↓。

http://opinionator.blogs.nytimes.com/2012/05/13/logic-and-neutrality/?smid=tw-share&_r=0


 続く第1章で説明されるが、ウィリアムソンはこの本で、現実主義(actualism)、可能主義(possibilism)というよく知られた対立とは別に、偶然主義(contingentism)、必然主義(necessitism)という代替的な対立軸を提案している。この点については、以前から論文で展開していたものだ。*2 時間についても、現在主義(presentism)、永久主義(eternalism)ではなく、時制主義(temporaryism)、永遠主義(permanentism)という感じ。*3 実際、近年この語法に従うかどうかは別にしても、ウィリアムソンの設定したこの土俵にのって現実主義を展開している論者もちらほら見かけるようになってきた。たとえばC.Menzelなど。そこではたとえば、現実主義を擁護する=偶然的存在者を認めさせる、といった感じがある。注までさらっていって言及されてる論文をチェックしていったらかなり長くなったので、続きはまた次にまとめる。


追記(2015/01/01):kindleのやつは、どうもこれを購入した時にはすでに出てたっぽくて、何かすごい勘違いをしているような気がする・・・。

*1:昔から謎なのだが、「こけおどし」って「虚仮で」おどかすのか、それとも「虚仮を」おどかすのか、どっちだろう?

*2:2010年の論文のあるヴァージョンがネット上でフリーで読める。

*3:正直、eternalismとpermanentismをそれぞれどう訳すかというのは、どっちでもいいような気がするが、一応、今日からこのブログでは、前者を永久主義、後者を永遠主義にしてみます。