teleleの雑記帳

たまに哲学の話をします。

単調論理と「っぽい」の意味論

 ツイートにブログでコメントするのは、どこかはしたないような気がして控えようと思っていたのだけど、たまたま考えたいことと重なったので、少し書く。





 最後の返しの立場への賛否はともかく、この流れは正しいのかな? 単調論理なら前提を追加することによって帰結を回避することはできないでしょう。*1 つまり「理性を働かせるのには身体的な訓練が必要だ」が真だとしても、やっぱり結論は矛盾して、背理法が使えるかもよ。*2

 当の段階で、むしろ言うべきなのは「「理性を純粋に働かせるためには、身体的訓練があってはならない」という前提が入っていないなら、あるいは他の前提がそれを含意しないなら背理法により否定されるとは言えない」というかなり直接的なものではないか。たぶん「理性を働かせるには身体的な訓練が必要だ」が前提に入りうることを明示的に指摘することで、その場合、入っているらしき「~、身体的訓練があってはならない」という前提が押し出されて排除される、と言うかもしれないが、それは全然明らかじゃないと思うのだ(どっちも前提に残ったまま、やっぱり矛盾するかもしれない。)

 あと「っぽい」を否定するとどうなるんだろう?*3 たとえばφを任意の命題とした場合*4、「φっぽい」をPφと記号化すると、この否定は表面的には¬Pφであろうが、とするとこれとP¬φの関係はどうなるのかな。つまり「φっぽくはない」と「φではないっぽい」の関係。さらに言えば、この二つと「やっぱφである」は矛盾しない。誰が何と言おうと「ペンギンは鳥だ」と知っていても、同時に「鳥っぽくない」も「鳥じゃないっぽい」も矛盾なく言える解釈はあるし、「それでもやっぱり鳥なんだよな」と矛盾なく思える。「っぽい」の意味論が必要や。*5

 

*1:もちろん、帰結は回避されているので単調論理ではない、というかもしれないが、そういう意図ではないと思うのだ。

*2:ちょっと似たような流れを思いついた。たとえば次を考えてみよ。Aの発言「人類の歴史は純粋な平和状態(戦争の終った状態)へ至る過程なはずなのに、ずっと戦争ばっかしててウケる。」Bの発言「背理法により、「純粋な平和状態へ至る過程なはず」が否定されます。」Cの発言「「純粋な平和状態へ至る(戦争を終わらせる)ためには、戦争が必要だ」が真なら「背理法により否定される」とは言えない。」このとき、Aの保持しているらしき前提もBの背理法もたしかに怪しいが、しかしCの提案している前提が真であることによって、Bの背理法と結論をを回避できるわけじゃない。

*3:日常的にはよくあることだけど、文法的・表面的にはただの否定が、聞き手の意図や話し手の理解としては明らかにもっと強い内容になっていることがよくある。たとえばφを命題とした場合、「φと信じている」がBφだとしても、この否定の「φと信じていない」で意図されていることは、¬Bφではなく、明らかにB¬φのことがよくある。信念が論理的に閉じていて、無矛盾だとするとB¬φから¬Bφは出るが、逆は成り立たない。つまり、¬Bφと¬B¬φは矛盾しない。日常的に¬Bφを言いたいときは、たいてい「φと信じてるというわけではない」という長ったらしい表現になる。同様のことは信念だけではなく、義務や欲求でも起こる。つまり「~べきではない」ではなく「~べきというわけではない」とか「~であって欲しくない」ではなく「~であって欲しいというわけではない」とか。

*4:もしくは、述語としたほうがいいか。「っぽい」は述語にかかると考えたほうがいいのかな?

*5:「っぽい」を必ずしも認識的に解釈する必要もないな。たとえば「コービ・ブライアントは、フリースローの打ち方までマイケル・ジョーダンっぽい」というのは、コービとジョーダンは実は同一人物の可能性もあるが、確実に言える証拠がないという意味ではなくて、この「ジョーダンっぽさ」は、観察者とは無関係にコービのフリースローという世界の一部に宿っている何かだと考えるべきだろう。しかもこの何かが性質だとして、これはジョーダンがいなければ、ありえなかったかか例化されえなかったような性質というわけではなく、ジョーダンがいなくても<ジョーダンっぽさ>は、ありえたor例化されえた性質だろう。ただこれを「ジョーダンっぽさ」と言えるためには、あのマイケル・ジョーダンがいなければならなかっただけだ・・・。いや、しかしフリースローだけではなく、ダンクやフェイダウェイやダブルクラッチなどの違う種類のプレーが、「ジョーダンっぽさ」で統合されるためには、ジョーダンが存在しなければならなかったとは言えるような気がするので、うーむ・・・。