teleleの雑記帳

たまに哲学の話をします。

人間疎密波探知機君と音程対応型人間温度計君の話

何年か前にマスターのゼミ(認識論)に参加したときのコメント↓。認識論はそんなにフォローしてないのだけど。

 人間温度計君の話について、ぼくが以前から気になっていたのは次の通り。知識の内在主義vs外在主義の議論における例の(人間温度計君の)話は、たとえば、耳の聞こえない人たちだけからなる共同体に、ひとりだけ耳の聞こえる人が存在する状況とさして変わらないんじゃないか。耳の聞こえない共同体はずっとそういう共同体のまま外部との接触が絶たれていたので、「音」とか「聞こえる」といった語彙も彼らの言語(手話)にはない。しかし、いずれその共同体の科学者たちは、耳の聞こえる人の特徴的な振る舞いを研究・解明し、そのメカニズムは共同体に広く知られるようになるだろう。ちょうど人類がコウモリやイルカのエコーロケーションのメカニズムを解明したように。なぜ彼は、誰かがオナラしたことを素早く察知できるのか。そのくせ嵐の日に雷が光ると数秒遅れてビックリしたりしているけど、あれは一体何なのか。このとき、耳の聞こえない共同体でひとりだけ耳の聞こえる彼は「人間疎密波探知機君」と呼ばれるかもしれない。もちろん「人間疎密波探知機君」とは、(耳の聞こえる)我々のことでもある。

 人間温度計君がなぜ周囲の温度を言い当てることが出来るのか、温度計君本人にも分からないように、我々だって特別な勉強をしない限り、音の物理的側面やそれが聴覚神経や脳に引き起こす物理的なプロセスを知っているわけじゃない。内在主義者にとって人間温度計君が温度を知っていると言えないなら、人間疎密波探知機君が、そうであるがゆえに持てる信念、たとえば「カラスが鳴いてる」も知っているとは言えなくなるのでは? であれば同じ人間疎密波探知機君であるこの世界の大多数の人々、つまり我々もまたそのことを知らないということになるのでは?

 これに対するY先生からのコメントはぼくの理解する限り次の通り。耳の聞こえない共同体で、ひとりだけ耳の聞こえる彼は、それでもなお「聞こえている音」というセンスデータを根拠に自分の知識を正当化できる。たとえそれを適切に表現する語彙が無かったり、そのことを周囲に理解されなかったりしたとしても、そのセンスデータは、内在主義的な正当化の根拠でありうる。一方、人間温度計君は何のセンスデータもなしに、周囲の温度が25度だと正確に言い当てることができる。(注)

 ここでまた思い付き。人間温度計君が絶対音感を持っているとしよう。そして周囲の温度が25度である場合は、彼の頭の中でD♭が鳴るというふうに、搭載する温度計を改造しよう。このとき、人間温度計君はセンスデータを持っている。周囲の温度が25度であるというのは、頭の中でD♭が鳴っているということから分かる。
 この展開については次のような反論が来るかもしれない。「温度は音ではないのであって、この場合、温度と音の結びつきは恣意的である。恣意的な関連から得られた信念は知識とは言えない」と。しかし、ホモ・サピエンス(やその他の動物)が気体分子の運動を「熱さ」と感じたり、疎密波を「音」と感じたりすることは、恣意的ではないのか? むしろ次のように言ってもいいかもしれない。音程対応型人間温度計君は、頭の中でD♭が鳴っているから、周囲の温度が25度だと分かるのではなく、彼にとってむしろ温度とは音(の高低)そのもののことなのである。(多くの人にとって、音は温度と異なる因果関係の中で理解され、使用される、ということが気になる人は、この音程対応型人間温度計君が、先の耳の聞こえない共同体にいる場合を考えて欲しい。そこではそもそも音を聞くのは彼しかいない。また、彼は自分の内部で鳴っている音と周囲の音を聞き分けることができる、としよう。)ここで改めて次の命題を考えてみる。

(H)人間温度計君は、周囲の温度が25度だと知っている。

 ここでのポイントはつまりこうだ。搭載される温度計が、ただ温度を当てさせるだけのオリジナルタイプか、それとも音程対応型のニュータイプかで、(H)が偽になったり真になったりするのは変じゃない? そして両方の場合で(H)が偽になるとしたら、センスデータを持ってくる意味って何だろう?
 ここでオリジナルタイプで(H)が真だという人は、そもそも内在主義者じゃない。その人にとって、ここまでの議論は無用だと思う。さらに、どちらの場合でも(H)は偽だと言うのであれば、その人は、センスデータとは別に、内在主義的な正当化の根拠を探して来なきゃいけないだろう。一方、オリジナルタイプで(H)は偽だが、音程対応型のニュータイプでは(H)は真だ言うのであれば、人間温度計君が温度を知っていると言えるかどうかは、搭載される温度計のタイプによる、と言わなきゃいけないんじゃないだろうか?

 内在主義的に、オリジナルで(H)は偽だが、ニュータイプでは(H)は真だと言うために、音と温度を分離した上で、次のようなことを考えてみてもいいかもしれない。ニュータイプの人間温度計君が、「D♭が鳴っているときには、いつでも25度だったし、25度のときは、いつでもD♭が鳴っていた」ということを知っているのならば、彼は温度を知っていると言ってもよい。もちろん、音程対応型の温度計が自分の体内に搭載されていること自体は、彼は知らない。それはここまでのお話の前提。自分でもよく分からない感覚が、周囲の環境の何に対応しているのかを知ろうとする、というのはあってもよいことだと思う。たとえ、その感覚が自分に生じる本当の過程を知っていなくても。


結論:最後の最後で自分で擁護しておいて何だが、内在主義者、けっこうしぶといかも。


注:ぼくはここで人間温度計君にいくつか種類をもうけたい。ある日突然、人間温度計君になってしまった人の場合と、生まれながらの人間温度計君、まずはこの二つだ。
 ぼくが明日から、突然人間温度計君になったとしよう。このとき、何のセンス・データもなしに、「自分には周囲の温度が25度だと、ただ分かる」と言うだろうか。あるいは何のセンス・データもなしに「自分には周囲の温度を言い当てることが出来る」と言うだろうか。ぼくの想像力が足りないかもしれないが、あまりそう言うとは思えないのだ。もちろん、そんなことをいきなり言い出して、しかも的中させるやつがいたとしても論理的に矛盾はない、という意味では、そんな人が存在することは可能な事態ではあるかもしれない。しかし、自分が寝ている間に、人間温度計君に改造させられたら、次の日から突然そんなことを言い出すとは思えないのだ。たぶん、起こることは「何だか分からないが、さっきから頭の中に「25度」という言葉が浮かんでいるのだが、これは何の暗号だろう?ひょっとして今の温度か・・・?」みたいな内省がはじまるんじゃないだろうか。これは、むしろ内在主義寄りな話かもしれない。
 一方、生まれながら温度計を搭載しているナチュラル・ボーン人間温度計君は、そうやって生きてきたのなら、もう温度を知っていると言っていいような気がするのだ。それはもうただニュータイプの人間、という感じがする。


補足
 ちなみにぼくは、「人間温度計君」初登場時の論文の内容を知りません(あしからず)。とはいえ、まず人間温度計君の議論では、以下のことが前提になっていると思う。

前提1、温度計君本人も含め、すべての人は、およそ温度計というものが、周囲の温度を正確に表示するものだということは知っている。
前提2、しかし、人間温度計君は、自分に温度計が搭載されていることを知らない。

 これらが満たされていなければ、人間温度計君に御登場いただく必要はなくなり、たんに自分の手に持っている温度計を見たとしても、それは正当化にならないと言えるはずだ。つまり、上記の前提が満たされていなければ、温度計が体内に搭載されている場合だろうと、手に持っていてそれを見る場合だろうと、違いはなくなる。だから、上記の前提は満たされていなければならない。
 にしても思うのは、温度計が周囲の温度を正確に表示することを知っているってのは、どういうことだろう?温度計周囲の気体分子の運動と、温度計内部の水銀の膨張率の関係みたいな、そういうメカニズムまで知っているということ?それとも、気温の違う色々な日に、何度も温度計を見て、それがたしかに周囲の温度を正確に表していると確認済みだと言うこと?このことは、耳の聞こえない共同体の話に影響するかもしれない。つまり、メカニズムを理解していることと、たんなる相関性が確認済みであることの違い。温度計の話の場合、特に後者が厄介なのは、温度計が周囲の温度を正しく表示しているということを、別の温度計を見ることなしに、どうやって確かめればいいかが、すぐには分からないということだ。つまり、温度計は周囲の温度を正確に表示している、というよりも、温度計が表示するのが周囲の温度だ、という感じがある。もし、複数の温度計が食い違っていたら、何を頼りにすればいいんだろうか?たぶん、「温度」という概念、というかたとえば「摂氏」という概念の基本に立ち返ることになるだろう。たとえば、水が凍結しはじめているのに、0度付近を表示していない温度計は、狂っているか、もしくは華氏表示なのだ、と考えるなど。しかし、こう考えると、「この葉は緑である」とか「カラスが鳴いている」というのと違って、「温度」というのがかなり人工的な区切りをもつ概念だというのが、面倒臭いですな。


というようなことを何年か前にゼミでコメントしていたのだが、*1 今頃になって思い出したのは、先日の科学基礎論学会に行く前に、フィッシュ本で予習しておこうとして、思い出したのだ。 *2 フィッシュを読みながらだと、改めて色々考えたいところが出てくるだろうと思う。今(ゼミでのコメントを)読み返すと、メカニズムの理解と相関の理解でいえば、温度計の場合、そもそもアナログ式なのかデジタル式なのか、デジタル式であれば、その実装はどうなってるのか、さらには一次温度計と二次温度計の区別とその関係などという話になれば、これはもう普通の人が一人で全部把握してることなんて、ほとんどありえないと思うのだ。

知覚の哲学入門

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先週、監訳者とばったり会って「えー?あれ買ったの?言ってくれればあげたのに」と言われて愕然。とはいえ日頃から恵投された本をブログに挙げて謝意を示す学者を見て歯ぎしりしていたので、複雑な気分になる。代わりというわけではないけど、ご飯をおごられた。

知識の哲学 (哲学教科書シリーズ)

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*1:そのゼミの前に予め担当の先生に送ったメールのバックアップを紛失していた。Y先生に問い合わせると、たまたま削除してなかったようで戻ってきた(感謝)。

*2:結局、不在届が二回入るという不手際で、何も読めずに基礎論学会に行ったのだけど