teleleの雑記帳

たまに哲学の話をします。

ただ可能であるというだけのものたち―Ersatzismではない現実主義

Mere Possibilities: Metaphysical Foundations of Modal Semantics (Carl G. Hempel Lecture)

Mere Possibilities: Metaphysical Foundations of Modal Semantics (Carl G. Hempel Lecture)


 様相の形而上学は、導入が難しいと思う。哲学なんかに興味がなくても、たとえば人の同一性や自由意思と決定論といった話題なら、一度は考えたことがあるという人もかなり多いだろうし、そうした普段の疑問の延長から入っていけるところがある。でも様相については、そういう分かりやすい入口があまりない(じつは、人の同一性や決定論についても、様相の話は関連しているのだけども)。アカデミックにきっちりやろうとすると、たとえば可能世界意味論が導入される以前の様相論理が、どれほどゴチャゴチャとした見通しの悪い状態だったか、クリプキをはじめとした革新者たちによって、それがどれほど劇的にエレガントな形に整理されたか、それ以降、どれだけ広大な応用領域が切り開かれていったか、等々の話をかなり時間をかけてやらないといけない。それらも同時に踏まえたうえで、ようやく、いわゆるその「哲学的基礎」とでも呼びうるような話に至るところがある。Stalnakerのこの本は、クワインの「何があるのかについて」から話を始めている。とはいえそれはツカミの部分であって、クワインが中心的に論じられているわけではない。この本は、可能世界意味論のパイオニアの一人であり、現実主義者としても知られている著者が、Ersatzism(パチモノ可能世界)ではない現実主義を展開している本。タイトルの「mere possibilities」は、たんに現実に存在するものが、現実とは別のあり方をしている可能性のことではなく、そもそも現実にはまったく存在しないものが、存在するようになる(or存在しえた)可能性のこと。参考までに第一章の書き出しを試訳。(14/09/17追記:書き出し部分だけと言ってもやはり権利が気になったので、訳は削除しました。)


全体を完全に読み切ってはいないけども、やはり現実的ではない可能的存在者の問題は、現実主義者にとってアキレス腱であることはStalnakerの方向性でも変わらない。可能世界は表象ではなく、世界が持ちうる性質だ、というのは昔からひとつの選択肢だったろう。もちろん性質についての理論がどうなるかによって、これはさらに複数の立場があるだろうし、それによっては(あるいはどう考えようと)厄介な問題を引き起こさないとは限らない。とはいえ、Ersatzismではない現実主義というのは、かなり貴重。テクニカルな話は、巻末のAppendicesに回されていて、とくにアクチュアル・オペレータの面倒な振る舞いは、かなり興味深いのだけど、まだ十分に消化し切れていない。ただたんに二次元意味論を使えばいい、というものではないのだろうね。


追記(14/09/20):読み返して「Ersatzではない現実主義」って誤解を招きやすいというか、そもそも意味不明だな、と思って直した。「Ersatzではない可能世界」か「Ersatzismではない現実主義」のどっちかだろうと。

追記(14/12/25):

ということらしい。この記事についてではないと思うけど、とするとStalnakerのこの本のタイトルってどうすればいいのかな・・・。いや、別に辿っていくとやっぱりこれでもマズイってわけじゃないと思うのだが。